ガブリエル・フォーレ (一八四五−一九二四)の、とりわけ前半生はサロンの音楽家として知られた。ポーリーヌ・ヴィアルド夫人、クレール家、サン・マルソー夫人、マドレーヌ・ルメール、グレフユール伯爵夫人、ポリニャック大公妃、エンマ・バルダック。
フォーレほどサロンの主宰者に愛され、庇護された作曲家もいないだろう。
フォーレというと、白髪で白い髭をはやした写真で知られているが、一八六八年当時、二三歳のフォーレは、豊かな黒い髪を聡明そうな額の上でわけ、鼻筋が通り、暗い夢見る瞳をした魅力的な青年である。
一八七二年にはサン=サーンスの紹介でポーリーヌのサロンに出入りするようになる。人見知りでものおじする質だったにもかかわらず、即興の才を買われてポーリーヌとピアノで連弾するなど、一族に暖く迎え入れられた。日曜日に音楽会、木曜日にはジェスチュアと韻律詩の会が催されたという。
「そこでは、アローベール、ジョルジュ・サンド、ルナン、さらにルイ・プラン達の前で、ツルゲーネフとサン=サーンスによってジェスチュアが演じられた」と、フォーレは木曜日の会について回想する。
「ジョルジュ・サンドは当時すでに気品のある老女となっており、ツルゲレネフは柔和な雰囲気と素晴らしい容姿をそなえた勢力家であった。私は彼の声の響を憶えているので、その後、彼の本を読む時にはいつもまるで彼自身が語っているかのような気がするのだ。ギュスターヴ・フローベールも数多くの冗談を飛ばしたが、最も愉快な人物はルナンであった。われわれは彼の底知れぬ陽気さがその身体の中から沸き上がるのを、わくわくしながら見つめたものだ」 (『ガブリエル・フォーレ』ジャン=ミシェル・ネクトゥー、大谷千正編訳)
有名な『夢のあとに』『舟歌』『秋の歌』などの歌曲はヴィアルド家で書かれ、そのうちゴーティエの詩にもとつく『漁師の歌』はボーリーヌに捧げられている。また、二人のソプラノのための『この世ではどんな魂も』と『タランテッラ』はポーリーヌの二人の娘、クローディーヌとマリアンヌに、『ヴァイオリン・ソナタ第一番』は、息子で未来のヴァイオリニスト、ポールに捧げられている。
フォーレはまた、実業家のクレール家と懇意にしていて、パリではヴィレルヴィル、夏の間はノルマンディのサン・タドレスの屋敷に招かれ、作曲家・指揮者のアンドレ・メサジェと親しくなっている。『ヴァイオリン・ソナタ第一番』や『ピアノ四重奏曲第一番』、『ピアノのためのバラード』は、クレール家の屋敷で書きあげられた。
このうち『ヴァイオリン・ソナタ』は、フォーレがポーリーヌの末娘マリアンヌと恋仲にあった時期に書かれており、作品に満ちた初々しいロマンティシズムを裏付けている。
ジャン=ミシェル・ネクトゥー『ガブリエル・フォーレ』によれば、「内気でか弱い少女であったマリアンヌとの五年来の恋を実らせて、フォーレは一八七七、年の七月に彼女と婚約を結ぶことになる。 (中略)また一方で、フォーレとヴイアルド家の関係には度々気まずい面もあったようだ」とのこと。
「五年来」だから、サロンに通うようになってまもなく、ということになる。七四年からマドレーヌ寺院のオルガニストをつとめていたフォーレは、七七年四月、同寺院の礼拝堂楽長に就任する。婚約を申し込むことができたのも定職を得たからだろうが、ヴィアルド家の目にはじゅうぶんとは映らなかった。
オペラ歌手として鳴らしたポーリーヌは、未来の娘婿にしきりにオペラを書くようにすすめる。オペラで成功することが、当時の作曲家が名をあげる唯一の手段だったからだが、フォーレはあまり気がすすまなかった。
サロンのメンバーの一人、ロマン・ビュシーヌはクレール夫人に宛てた手紙で、ポーリーヌとフォーレの間にかわされた会話を書きとめている。
「彼の仕事に対する無頓着について話し合われた……彼はオペラを書くべきと言われた…… (中略)。貴女はここにかわいそうなフォーレの様子を思い浮かべるに違いないが、彼はこの時グノーやギャレのようなある種の伝説を主題としたオペラを書くことを約束したのです。しかし、その事によって彼は憂うつにならざるを得なかった……」 (同書)
これは、ショパンと同じケースである。
ショパンもまた、故郷の家族や恩師から、さかんにオペラを書くようにアドバイスされている。姉のルドヴィカは「あなたはオペラによってこそ不朽の名を残すべきです」と手紙に書き、作曲の師エルスナーも「音楽の巨匠の偉大さはピアノ音楽よりもオペラや交響楽によって表され、測られる」と力説する。友人のヴィトフィツキにすら「君は絶対にポーランド・オペラの創始者になるべきだ」とたきつけられ、国民詩人のミツキェヴィッチもショパンが国民オペラを書かないことに不満を表明しつづけた。
しかし、自分の芸術はもっと親密で規模の小さな楽曲でより発揮されると信じていたショパゾは頑として受け付けなかった。そのために彼は作曲によってじゅうぶんな収入を得ることができず、もっぱら上流階級の子弟にピアノを教えて生活の糧を得ていた。
実際にオペラを書いて社会的地位が上がつたドビュッシーの例もある。傑作『牧神の午後への前奏曲』は出版社にわずか二五〇フラン (一フラン=約一〇〇〇円)でしか売れなかったが、一九〇二年に『ペレアスとメリザンド』の初演を成功させると、作曲による報酬は二桁アップし、一万フラン台に上がった。しかし、浪費家のドビュッシーが、さらに浪費家の妻と再婚したため焼け石に水で、最終的に出版社に六万六千フランの借金を残して死んだ。
フォーレの『ヴァイオリンソナタ第一番』は一八七七年一月二七日、マリー・タヨーのヴァイオリン、作曲者自身のピアノで初演され、大成功をおさめたが、マリアンヌとの婚約はその年の一〇月に解消されている。
心配したツルゲーネフはマリアンヌの姉クローディーヌに次のような手紙を書く。
「君は優しくて、かわいそうなフォーレを助けてあげられる人だ。僕はこの青年が大好きで、マリアンヌが彼に愛情を持ってくれることを願っている。もっとも、僕にはマリアンヌはそれほど結婚したがっているようには見えないので、それは難しいことなのかも知れないが……」 (『ガブリエル・フォーレ』)
のちにフォーレは、これで良かったのだ、もしヴィアルド家の一員になっていたら、自分の芸術の進むべき道は変えられていたかもしれないと回想している。
一八八三年にフォーレは彫刻家の娘、マリー・フレミエと結婚し、二人の息子が生まれたが、作曲で生活することができず、パリ近郊の音楽院への出稽古で稼がなければならなかった。日本の大学で一コマいくらの非常勤講師をかけもちするのと同じ状況だろう。
「うんざりです!」と彼はボー二夫人 (のちのサン・マルソー夫人)に書く。
「ぼくは依然マドレーヌ寺院に行ってますし、出稽古をするのもやめていま
ん。しかもぼくの生徒は (週に二度)、ヴェルサイユにもいますし、ヴィルダヴレイにも、同じくサン・ジェルマンにも、ルーヴシェンヌにもいるのですよ!ぼくはパリからキュイ (ボーニ家の別荘がある)を通る鉄道を一日平均三時間も乗っています」 (『フォーレ・その人と芸術』フィリップ・フォーレ=フルミエ、藤原原裕訳)
一八九六年、マスネのあとを継いでパリ音楽院の教授に就任するまで、フォーレの創作と経済的困窮を支えたのはサロンの女主人たちだった。
ボーニ夫人は、ワーグナーの音楽に魅せられながら資金がないフォーレのために「なぞなぞびっくりくじ」を考案し、メサジェとフォーレがバイロイトに楽劇を観に行けるように算段した。感激したフォーレは、彼女にこんな手紙を書いている。
「しばしばバイロイトに行きたいと語りながら、実際は行けないだろうと考えている一人の男がありました。ところがこの哀れな男がそこへ行かれるのです! (中略)ぼくはあなたがやってくださったことと友人たちの熱意にたいそう感動しました……」 (同書)
音楽界の影の大立者と言われたポリニャック大公妃も、フォーレの庇護者だった。コルタンベール街の彼女のサロンは、前衛好きの夫人の趣味を反映してシャブリエからストラヴィンスキーに至る最先端の作曲家たちに発表の場を提供していたが、フォーレの『涙』、連作歌曲『五つのヴェネツィアの歌』、組曲『ペレアスとメリザンド』もここで初演され、大公妃に捧げられている。
このうち『五つのヴェネツィアの歌』は、一八九一年五月ー六月、当時セ=モンベリアール侯爵夫人と呼ばれていたポリニャック大公妃の手引きでヴェネッィアに滞在した折に着手したものだ。テキストはヴェルレーヌの詩集『雅びなる宴』と、『言葉なきロマンス』に収められた「忘れられた小唄」で、前者からは『マンドリン』『ひそやかに』『クリメーヌに』、後者から『グリーン』『そはやるせなき夢ごこち』がとられている。
ドビュッシーの専門家には無関心では通れないラインナップである。ドビュッシーはフォーレの一七歳下だったが、彼が『マンドリン』と『ひそやかに』で歌曲を書くのは一八八二年、つまりフォーレの九年前、『グリーン』は八六年だから五年前、『そはやるせなき』は四年前。『ひそやかに』以外は一四歳年上の恋人ヴァニエ夫人に捧げられている。
『忘れられた小唄』はヴェルレーヌがランボー事件のさなかに書き、『雅びなる宴』はマチルドに出会う前に書いた詩集で、二人を結びつけるのに役立った。さらに言うなら、普仏戦争前の夏休み、ヴェルレーヌに会う前のランボーが故郷のシャルルヴィルで読み、学校での師に宛てて「いかにも妙ちくりんで、とても奇抜なものです。でも、まことに、敬服すべき作です。時々、べら棒に破格なところがございます」と褒めた詩集である。ランボーは同じ手紙で、同じ詩人の『優しい歌』はまだ読んでいないが、評判がよいので読むようにすすめている。ヴェルレーヌが蜜月中のマチルドに捧げた愛の詩集だ。
フォーレは一八九二年−九四年、この詩集にもとつく歌曲集を作曲しているが、私的に初演したのはサロンの歌姫エンマ・バルダック、つまりのちのドビュッシー夫人だった。
フォーレとエンマは、一八九〇年から九六年ごろにかけて親密な間柄だったと言われる。『優しい歌』が作曲されたのはブージヴァル近くの広大な別荘で、近くにはフォーレの妻の実家もあった。
「毎晩、フォーレは《館》に赴いて、その日の仕事をその歌い手に見せていた。そして、再々、本当に頻繁に、彼女は彼に、これを訂正するようにとつき返していた。私は『白い月、森にさし』の一番初めの自筆譜を持っているが、彼女は天才的に正しかった。なんとフォーレに、一曲全部を書き直させているのだ……」 (『評伝フォーレ』ネクトゥー、大谷千正監訳)
これは、パリ音楽院でフォーレに師事したロジェ・デュカスの回想である。
フォーレ自身は、のちに手紙で次のように書いている。
「『優しい歌』ほど自然に沸き上がるようにして書けた作品は、未だかつてありません。それは大いに心を揺さぶってくれた女性歌手が当時いたことと、その人自身も少なくとも同じような理解を私に示してくれたことによって、順調に仕上がっていったのだと一言つけ加えておきたいと思います。 (中略)その後このようなことには、もう二度と出合うことはありませんでした」 (同書)
フォーレは、創作にあたって演奏家の助けをよしとする作曲家だったようだ。『ヴァイオリン・ソナタ第一番』のときも、ベルギーのヴァイオリン奏者レオナールと寝食をともにする機会があり、日中書きあげられた部分は夜には音になり……というやりとりを経て傑作が生まれた。エンマのときもおそらく、実演家と創作家の立場からさまざまなやりとりがなされたことだろう。ちなみに、後年、エンマと結婚したドビュッシーと妻の間に、こうした創作上の意見交換があったという話はきかない。
エンマはボルドーのモイーズ家の生まれで、一八七九年、一七歳で銀行家のシジスモン・バルダックと結婚し、八一年に長男のラウールが生まれている。彼はのちにドビュッシーに作曲を習うことになる。長女のドリー (本名はエレーヌ)は一八九二年生まれだから兄とはかなり間が離れているが、実はフォーレ自身の子供だったらしい。
フォーレは彼女の誕生日を祝うために、毎年一曲ずつ連弾曲をプレゼントしていく。「子守歌」「ミ=ア=ウ」「ドリーの庭」「キティ=ヴァルス」「タンドレス」「スペイン風の踊り」は九七年に組曲『ドリー』としてまとめられ、ひろく愛奏されているが、こんな裏のエピソードを知ってしまうと、音楽が純粋無垢なだけになんだか空恐ろしくなる。一八九六年にフォーレがパリ音楽院の教授に就任すると、シャンゼリゼ通り近くのペリ通りのエンマのサロンにも、シャルル・ケクラン、ロジェ=デュカス、モーリス・ラヴェルなどフォーレのクラスの学生たちが集うようになる。
一九〇三年に書かれたラヴェルの歌曲集『シェーラザード』は第一曲が初演者、第二曲はサン・マルソー夫人、第三曲「つれない人」はエンマに献呈されている。「アパッシュ」の仲間うちにいたトリスタン・クリングゾルの歌詞によるもので、若く美しい男が女性の家の前で歌うものの、家に招じ入れようとすると見向きもせずに立ち去るという内容はなかなか意味深だ。
そのクリングゾルは、次のような意味ありげなコメントを残している。「大変才能があって、また抜け目のない某女流歌手が、 (ラヴェルに)目をつけた。彼女は自分のヘブライの……で損をした。彼女は仕方なくもうひとりの別の芸術家で我慢した」 (『伝記クロード・ドビュッシー』フランソワ・ルシュール、笠羽映子訳)
ラヴェルの、公表はされていないが推測される性向によってエンマの接近は頓挫し、次のターゲットがドビュッシーだったというわけである。
2021年6月19日 響きあう芸術パリのサロンの物語の記事一覧>>
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