【連載】響きあう芸術パリのサロンの物語9「ポリニャック大公妃」(岩波図書 2021年10月号)

 シンガー・ミシンの創設者の娘に生まれ、七月革命で退陣したシャルル一〇世の大臣の息子と結婚したポリニャック大公妃がコルタンベール街とアンリ・マルタン街で開いたサロンは、時期的にサン=マルソー夫人のそれと不思議なほど重なっている。
 生まれた年はサン・マルソー夫人が一八五〇年、ポリニャック大公妃は一八六五年、最初の結婚は前者が一八七〇年、後者は八七年と隔たりはあるが、サン・マルソー夫人が夫と死別したのと、ポリニャック大公妃が離婚したのが同じ一八九一年。再婚は前者が一八九二年で、ボー二夫人からサン・マルソー夫人になり、後者は九三年、セ・モンベリアール侯爵夫人からポリニャック大公妃となった。
 サン=マルソー夫人は一八七五年から一九二七年、ポリニャック大公妃は一八八七年から一九三九年まで、つまり世紀をまたいで五二年にわたってサロンを開いている。
 しかし、それ以外のことは真逆だった。サン=マルソー夫人のサロンが彼女のお気に入りによる親密な空間だったとすれば、ポリニャック大公妃のそれはより社会とむすびついていた。一八八〇年代から国民音楽協会に出資し、オペラ座、パリ管弦楽団の活動に寄与し、デイアギレフ率いるロシア・バレエ団にも助成を惜しまなかった。
 前衛音楽に理解のある大公妃は、彼女のサロンで多くの新作を初演し、演奏家には出演料を支払い、先物買いで若い作曲家にどんどん作品を委嘱した。ストラヴィンスキーのバレエ音楽『狐』、プーランク『二台のピアノのための協奏曲』は大公妃の委嘱によって書かれた。彼女は、上流階級のサロンには出入しなかったエリック・サティに交響的ドラマ『ソクラテス』(一九一八)を依頼した人物として音楽史に名を刻まれるだろう。
 大公妃の死後、彼女のサロンはシンガー・ポリニャック財団の拠点となり、現在でもシンポジウムやコンサートを主催し、奨学金制度で若い音楽家たちを支援している。
 アルベール・サマンは若き日の彼女のポートレイトを次のように描写する。
 「二五、六歳で大柄で、痩せてほっそりしている。顔つきは繊細で知的で、額と顎に意志的な何かを感じさせた。口元はきりりと結び、わずかに出た下唇がその微笑に尊大さを加味していた。英語のアクセントでゆっくりとしゃべった。彼女は時代の芸術運動に非常に敏感だった。最先端の雑誌を読み、稀な展覧会に通じ、熱心にバイロイトに行き、新しい芸術への試みに心から興味をいだいていた」
 一八六五年にニューヨークで生まれたウィナレッタ・シンガーは二歳のときからフランスに渡り、両親が購入したマルゼルブ街八三番地の広大な邸宅で育った。父は彼女が一〇歳のときに莫大な遺産を残して亡くなり、母はベルギー貴族と再婚し、一八七八年ごろからクレベール街に音楽サロンを開いている。
 ウィナレッタは母のサロンでクラシックの重要なレパートリーを知った。弦楽器の収集家だった母は、カルテット二つ分のストラディヴァリウスを所有していたという。
 「まだごく幼ないころから、私はべートーヴェン、モーツァルト、シューベルトのすばらしい作品を聴いて育った。ベロマヱートーヴェンの最後の一〇番から一七番(ママ)の弦楽四重奏曲は、当時はまったく理解、不可能と言われていたが、とりわけ第一四番は私に強い印象をあたえた。私の一四歳の誕生日、さまざまな豪華なプレゼントの中で、私を一番喜ぱせたのがこのお気に入り作品の演奏だった」
 一八八〇年代はじめの夏、ノルマンディの海沿いの別荘で、ウィナレッタははじめてフォーレに会っている。ドゥーヴィルとオンフルールの間の断崖に位置するヴイレヴィル村は、夏の間多くの芸術家たちが訪れることで知られ、フォーレも家族ぐるみのつきあいをしていたクレール家の邸宅で夏を過ごすのを常としていた。ウィナレッタは、母の夜会に呼ばれたフォーレが弾ぐシューマンに魅せられ、近付きになりたいと願ったという。
 ウィナレッタは一八八七年、セ・モンベリアール侯爵と結婚する。その少し前、彼女はコルタンベール街とアンリ・マルタン街が接する角地を購入し、アンリ・マルタン側に邸宅、コルタンベール側に厩と温室、そして音楽用のアトリエノを備えた大邸宅を建てる。
 シルヴィア・カーン著『ウィナレッタ・シンガー・ポリニャック』の巻末には、大公妃が亡くなる数ヵ月前まで催された音楽夜会の演目と演奏者のリストが掲載されている。
 一八八八年三月二二日には、シャブリエのオペラ『グヴァンドリーヌ』が上演されている。二年前にベルギーのモネ劇場で初演されたが、パリではまだ上演の機会が得られなかったものだ。ソリストと二四人の合唱隊、ラムルー管弦楽団の有志による小編成のオーケストラ。フォーレはハルモニウムと指揮で、シャブリエはピアノで参加している。ヴァンサン=ダンディとアンドレ・メサジェが打楽器で参加、というのがおもしろい。
 一八八〇年代の終わりから、大公妃はパリの著名な文芸サロンや音楽サロンに足しげく通うようになる。一八九〇年代はじめには、「薔薇の花の画家」として知られたマドレーヌ・ルメール夫人のサロンでレイナルド・アーンに出会い、ピアニスト、エドゥワルド・リスレールとの共演に接する機会を得た。彼らとの友情は長くつづき、美学上の意見の相違によって傷つけられた時ですら損なわれることはなかった。
 大公妃はまた、先輩のサン・マルソー夫人の「金曜日」に招かれることを誇りに思っており、「偉大な夫人たちの中でも彼女はその知性によって君臨していた」と回想している。マルゼルブ街の「金曜日」で大公妃はドビュッシーやラヴェルにはじめて会った。
 一八九一年、ウィナレッタはセ・モンベリアール侯爵と離婚。翌年にはコルタンベール街のアトリエの中に一種のペントハウスのような別荘を建て、以前から夢想していたように、カヴァイエ=コル製のオルガンを設置した。翌年の一月、フォーレとともに昼食に招かれたアルベール・サマンは、家族への手紙でその豪華な内装について報告している。
 「彼女は建設したばかりのアトリエを見せてくれた。巨大な空間で、二階の高さのところに円形のギャラリーがあり、円天井とあいまって最高の音響効果を生んでいた。オルガン用のホールは構築中とのことだった」
 一八九三年にウィナレッタは三〇歳年上のポリニャック大公と再婚する。グレフユール伯爵夫人の従兄弟で、ロベール・ド・モンテスキュー伯爵の友人でもあった。ウィナレッタに結婚をすすめたのは彼ららしい。夫も妻も同性愛者で、いわゆる白い結婚だったが、音楽への情熱と思考の類似性が二人をむすびつけたと思われる。
 パリ音楽院で作曲を学んだ大公は、国民音楽協会のメンバーで、スコラ・カントルムの副理事長をつとめ、ヴァンサン=ダンディとも親しかった。新夫の立ち位置はサロンのプログラムにも反映されている。
 一八九五年四月にはラモーのオペラ『ダルダニュス』が抜粋で上演され、ハインリッヒ・シュッツの混成合唱曲も取り上げられている。シュッツはドイツ初期バロックの作曲家で大バッハの一〇〇年前に生まれた。ところで、フレンチ・バロックの作曲家ラモーはバヅハの二歳上なので、ほぼ一〇〇年を隔てたプログラムということになる。
 一八九八年七月八日は、スコラ・カントルムとの共同主催で、バッハ、オルラ、ンド・デイ・ラッソといった一六世紀、一七世紀の作曲家とデオダ・ド・セヴラックなど当代の作曲家の作品を並べ、ポリニャック大公自身の作品もとりあげられている。
 コレットはサロンの模様を次のように描写する。
 「フォーレがピアノの前に座り、バジエスがシューマンを歌っている間、でなければエドゥワルド・リスレールが演奏している問、ポリニャック大公はカナッぺに座り、ずっとデッサンしていた。私もほんの少しの出費で、きれいに描いてもらっていたらどんなによかっただろう。そのことをずっと後悔している」
 コレットが肖像を描いてもらわないうちにポリニャック大公は亡くなってしまった。
 一九〇一年八月、夫の死を機に、ウィナレッタは若い建築家に依頼し、今度はアンリ・マルタン街にネオクラシック様式の壮大な邸宅を建てる。工事は一九〇五年に完成し、従来のコルタンベール街のアトリエ(オルガンと二台のピアノがあった)に加え、アンリ・マルタン街の広大なサロン(一〇〇人を収容することができた。のちにミシアの三番目の夫となるホセ・マリア・セールが装飾をほどこす)の両輪でサロンを開催することになる。
 以降三〇年以上の間、ウィナレッタはすぐれたプロデュース能力を発揮し、莫大な遺産をもとに、広大なスペースを芸術創造の場として最大阪に活用することになる。
 ロシア・バレエ団の主宰者ディアギレフとの出会いは一九〇六年のことだ。ロシアの大公と知り合いになったウィナレッタは、彼をサロンに招くようになる。ある夜、招待客の中に大公の同胞で貴族的で大柄な男性を見かける。黒い髪を分ける一筋の白いメッシュがチンチラの毛皮を連想させた。それがセルゲイ・デイアギレフだった。興業主としても音楽界、美術界、舞踊界の偉大な目利きとしても国際的な名声を馳せていた。
 一九〇六年といえば、彼がパリ進出した最初の年だ。プチ・パレで開催したロシア人画家の展覧会を成功させ、社交界に進出するきっかけをつかんだ。
 一九〇七年には、パリの興業師ガブリエル・アストリュックとグレフユール伯爵夫人の協力・援助を得てオペラ座を五日間借り切り、ロシア音楽によるコンサートを催している。作曲の師リムスキー・コルサコフの口添えで著名な音楽家を招聰し、グラズノフ、スクリャービン、ラフマニノフによる自作自演を披露したが、とりわけ、シャリアピンが歌うボロディン『イーゴリ公』やムソルグスキー『ポリス・ゴドゥノブ』のアリアは圧倒的で、評判は一挙にひろがった。
 翌年は、同じくシャリアピンを主役に据えて『ポリス・ゴドゥノフ』の全曲上演を企てたが、ロシア大使や若い公使アリスティッド・ブリアンの支援を得てすらも経済的に厳しかった。ディアギレフがポリニャック大公妃のサロンに近づいたのも、単に音楽界の重鎮が集うだけではなく、経済的支援をしてくれそうな面々が顔をそろえていたからだ。
 一九〇九年にはマリインスキー劇場の踊り手やスタッフを大移動させ、大改装されたシャトレ座でロシア・バレエ団による「セゾン・リュス」を企画したが、最大の政府後援者が亡くなり、反対派によってロシア帝室からの資金援助が打ち切られ、資金難に陥った。
 二六万五〇〇〇フランをかき集める必要が生じたアストリュックとデイアギレフはボリニャック大公妃に泣きつき、メセナのリストをつくって呼びかけた。このとき、大富豪のエドゥワルドと結婚していたゴデブスキ家のミシアも重要な出資者の一人になった。
 以降、ウィナレッタとミシアはロシア・バレエ団の後援合戦をくりひろげる。ミシアにはオーラがあったようで、オルネラ・ヴォルタによれば、「ディアギレフは、女嫌」いだったにもかかわらず、重大な決定は彼女に根談してからでないとできなくなった」という。
 資金が集まり、一九〇九年五月一九日に行われたバレエ公演では、『アルミードの館』や『レ・シルフィード』などが披露され、とりわけ驚異的な跳躍を誇るニジンスキーが大人気を集めた。これが、一九二九年までつづくバレエ・リュスの幕開けである。
 最初の一〇年間は資金援助するだけだったが、つづく一〇年間では彼女が選択した演目に対して制限のない出資をするようになった。ニジンスキーの妹が振り付けたストラヴィンスキーの『狐』も、もともとはウィナレッタの委嘱によるものだった。一九一六年一月、ウィナレッタから、報酬二五〇〇スイスフランで「あまり規模の大きくない管弦楽作品」を依頼されたストラヴィンスキーは、ロシアの民話から『狐』を構想した。のち、にロシア・バレエ団に譲られ、一九二二年五月一八日にオペラ座で初演されている。
 一九一六年四月一八日、ユイガンス音楽堂で開かれた「サティとラヴェルの音楽祭」に出席したウィナレッタは、サティに興味をもち、夕食に招待する。かねてから温めていた『ソクラテス』にもとづく交響劇を依頼する。報酬は前受け金と完成謝礼がともに二〇〇〇フランで、あまりの高額提示にとまどったサティもテーマに惹かれて承諾した。テキストはプラトンの『対話篇』を自由にコラージュしたもので、サティ自身が作成した。
 この作品を作曲中に、サティの身にとんでもないことが持ち上がった。ロシア・バレエ団による『バラード』は一九一七年五月一八日にシャトレ座で上演され、タイプライターを使った音楽や突飛な演出で物議をかもしたことはよく知られている。
 『ラ・グリマース(しかめっつらの意)』という雑誌の批評家ブエグが「調子はずれの道化師サティは、タイプライターや騒音を用いて作曲した」と批判したので、激怒したサティは抗議の葉書を送った。そこには、サティが若い時期をすごしたモンマルトル界隈のキャバレー風の卑狼な表現が含まれていたので、あろうことか批評家に訴えられ、刑事事件で告訴されてしまう。結果は有罪で、禁固一週間と一〇〇フランの罰金、プエグに対する損害賠償として一〇〇〇フラン払うように命じられたのである。
 控訴審を待つ間、コクトーがウィナレッタにかけあい、弁護士会会長に面会したものの、全面的な謝罪が必要だと言われたらしい。控訴審では一審を支持する判決がおり、怒り狂ったコクトーがプエグ側の弁護士殴るという騒ぎまで起きた。
 結局、ウィナレッタが一一〇〇フランを肩代わりし、ミシアは司法大臣に頼み込んで、「今後五年間の品行方正と懲役刑を受けない」ことを条件に無罪放免となった。
 ファリャの『ペドロ親方の人形芝居』もウイナレッタの委嘱により作曲された。初演は一九二一二年六月二五日、アンリ・マルタン街のサロンで行われたが、ウラディミール・ゴルシュマン指揮の室内オーケトスラ、デュフランヌのバリトン、ワンダ・ランドフス力のチェンバロという豪華メンバーで、リヵルド・ヴイニェスとプーランクは、なんとピアノではなくマリオネット操作係をつとめている。
 上演後、ウィナレツタが出演者のみならナ作曲家のファリヤも夕食に招かず、食堂で冷たい食事を取らせたため、怒った彼らは再演を拒否している。ウィナレッタは莫大な委嘱料を出したが、彼女にとってアーティストは使用人と同じだったらしい。
 これに類した処遇は、現在の東京でのサロンコンサートでも経験することがある。

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