【連載】響きあう芸術パリのサロンの物語13(最終回)「ヴァランティーヌ・グロス」(岩波図書 2022年2月号)

 「コクトーが撮った29枚の写真」という副題がついた『ピカソと過ごしたある日の午後』(ビリー・クルーヴァー著、北代美和子訳、白水社)は、エコール・ド・パリが蘇る楽しい本である。
 一九一六年八月一二日、ピカソと昼食をとる約束をしていたコクトーが、モンパルナスのカフェ「ラ・ロトンド」でお茶を飲みながら、あるいは、交差点向いのレストラン『バティの店』で食事しながら、集ったピカソのモデル、パクレット、詩人のマックス・ジャコブやアンドレ・サルモン、画家のキスリング、モディリアニたちも含めて撮影した二六枚の写真を時系列的に並べて解説している。 残りの三枚はその前日か二日前にコクトーが撮影した、サティとヴァランティーヌ・グロスの写真で、「ラ・ロトンド」の写真の前に掲載されている。場所はコクトーの母親が所有するアンジュー街一〇番地四階のアパルトマンの中庭に面したバルコニー。
 いつも同じ上着を着て「ベルベット・ジェントルマン」と言われたサティは、白いカラーの襟を立て、ネクタイをきちんと結び、帽子を目深にかぶっている。
 隣のヴァランティーヌはつば広の帽子でまぶしい日差しを避け、大きな白い襟が優雅な細い首筋(コクトーは、彼女の生まれた町にちなんで「ぼくのブローニュの白鳥」と呼んでいた)と完壁なデコルテを際立たせている。つんと尖った鼻、薄い唇、やや突き出した繊細な顎は、ポール・ポワレのモデルのようだ。
 ヴァランティーヌがサティに会ったのは、一九一四年、若い作曲家ロラン・マニュエルの家で試演された『メデューサの罠』を聴きに行ったときのことである。気むずかしく、皮肉屋で人間関係が長つづきしないサティだったが、なぜかヴァランティーヌとは気が合い、父娘、兄妹のような関係が死ぬまでつづいた。
 ヴァランティーヌがコクトーに会うのも、同年五月一四日、ロシア・バレエ団がオペラ座で上演した『ヨセフ伝説』リハーサルの折だった。たちまち仲良くなり、アンジュー街一〇番地のアパルトマンをたびたび訪れるようになる。コクトーは同性愛者だったが、母はヴァランティーヌとの結婚をすすめたという。
 一八八七年にブーローニュ・シュル・メールに生まれたヴァランティーヌは、一九〇七年にパリに出て美術学校に通う。一九〇九年にロシア・バレエ団の第一回公演に接して感銘を受け、舞台裏やリハーサル風景をデッサンしはじめる。ニジンスキーがドビュッシーの音楽に振り付けして踊った『牧神の午後への前奏曲』(一九一二)や、衝撃的な振り付けでスキャンダルを起こしたストラヴィンスキー『春の祭典』(一九一三)のデッサンは沸き立つような線で描かれ、今にも踊りだしそうな臨場感がある。
 『春の祭典』初演の一週間後、ヴァランティーヌはシャンゼリゼ劇場のこけら落としに合わせて、劇場内のモンテーニュ回廊で個展を開く。ポスターには「カルサヴィナ、ニジンスキー、イザドラ・ダンカンのダンスのクロッキー習作」と記されている。
 最初の二人はロシア・バレエ団のスターだが、「裸足のダンサー」イザドラ・ダンカンについては説明が必要だろう。一九〇〇年、母とパリに出てきたイザドラは完全に無名だったが、サン・マルソー夫人の友人のジヤック・ボー二に紹介されて一九〇一年一月二〇日、彼女のサロンで踊っている。夫人の日記によれば、客席には演劇評論家のサルドゥ、薔薇の画家でサロンを開催していたルメール夫人、指揮者のメサジェ、プティ・パレを設計したジローらが連なっていた。
 夫人は日記の中で、「小さなアメリカのダンサーが踊りとパントマイムを披露した。ボー二は詩を朗読し、ラヴェルはピアノを弾いた。すべてが至福で夢、ポエジーに満ちたひとときだった。若い人たちにとっては大きな成功となった」と記している。
 彼女が書いている通り、トゥ・シューズをはかずクラシック・バレエの身振りもしないイザドラのオリジナルなダンスはルメール夫人、グレフユール夫人、ポリニャック大公妃などサロンの女主人たちの興味を惹き、あちこちで招かれて踊るようになる。
 一九一二年七月四日、サン=マルソー夫人はイザドラを招き、自宅の庭で宴を催す。
 「比類のない優雅さで彼女は踊った。彼女の身体は丸くなり、容貌にもやや衰えが見えたが、その即興的なステップに彼女が確立させ、ダンスの世界に革命を起こし、考えられるかぎりの不当な扱いを受けた芸術的な精神を与えていた」
 ちょうどそのころ、ヴァランティーヌがデッサンしたイザドラの舞踊姿があるが、ギリシャ風のチュニックをまとった身体はたしかに少し丸みを帯びているようだ。二歳と七歳の子供がいる未婚の母イザドラは、翌年二人の子供たちを自動車事故で失っている。
 ヴァランティーヌに戻ろう。一九一三年の個展で大成功をおさめ、雑誌にファッションやバレエのスケッチを依頼されるようになった彼女は、社交界に出入りしはじめ、自分でもサン・ルイ島ブルボン河岸二九番地で毎週水曜日に開かれるサロンに多くの画家、作曲家、文学者、雑誌関係者や演劇関係者を迎える。
 一九一五年一〇月一八日、このサロンで、サティとコクトーの歴史的な邂逅が演出される。最初の出会いでは劇場支配人のガブリエル・アストリュックが同席していたが、一一月二九日には、介在者なしで話し合いがおこなわれた。
 当初の企画はシェークスピアを翻案した『真夏の夜の夢』だった。マックス・ラインハルトの演出でベルリンで上演された折に協力したエドガー・ヴァレーズがパリでの上演を望んだが、戦争中で劇場は閉まっている。そこで、モンマルトルのメドラーノ・サーカスの小屋が候補に挙がった。音楽は、通常用いられるメンデルスゾーンのかわりにフランス音楽のメドレーで、ヴァレーズ、ストラヴィンスキー、ラヴェル、フローラン・シュミット、サティが分担して作曲し、キュビズムの画家アルベール・グレーズが衣装デザイン、台本はコクトーが担当することになっていた。
 コクトーは一九一四年春、のちにグレーズと結婚することになるジュリエット・ロシュの家で彼に会い、親交をむすんでいる。ところで、コクトーはセーヌ河右岸の「ブルジョワ街」育ちだったので、ミシアはロシュに文句を言い、「どうしてジャンをキュビストに紹介したの?ジャンは右の人間よ、左じゃないわ」と抗議したという。コクトーにとっては旧世界から新世界へ乗り出すチャンスだったが、この話はグレーズとヴァレーズがアメリカに行くことになったため頓挫してしまった。
 サティとコクトーが三度目に会うのは、一九一六年四月にユイガンス音楽堂で開かれた「ラヴェル・サティ音楽祭」の折だった。
 ユイガンス通り六番地は、もともと画家のアトリエだった。戦争のために右腕を失って帰国した詩人のブレーズ・サンドラールがポーランド人の画家キスリングとかたらって、この場所をコンサートホールと展覧会場に改築した。四月二六日にはドビュッシーの音楽祭が開かれ、一八日がラヴェルとサティの回だった。当時負傷兵の救援活動でフランドル戦線にいたコクトーは、休暇で一時的にパリに帰っていた。ヴァランティーヌとともにコンサートにやってきたコクトーは、サティとヴィニェスが連弾で演奏した『梨の形をした三つの小品』に惹きつけられた。
 かねてからロシア・バレエ団のディアギレフに「俺を驚かすような企画をもってこい」と言われていたコクトーは、『梨の形』こそ待たれていた音楽だと思い、ヴァランティーヌを通じてバレエ化を申し入れるが、サティのほうは一九〇三年に書いた旧作のやきなおしには興味がなく、「新作で行きませんか?」と提案する。サティに焚きつけられたコクトーは、大道芸の香具師の口上をもとに『バラード』のプロットを思いつく。ところで、ロシア・バレエ団のメセナで知られたミシア・セールは、二年も前の一九一四年六月二八日に、自分のサロンでディアギレフにサティを引き合わせている。
 「当時ディアギレフはパリにおり、私はサティに無関心な彼を、会うたびに非難していました。とうとう彼は私の厳命に折れ、私は二人を自宅に呼んで、セルジュにアルクイユの師匠の音楽を聴かせたのです」(『書簡から見るサティ』オルネラ・ヴァルタ著、田村安佐子・有田英也訳、中央公論社)
 痩せて小柄なサティが、片眼鏡を鼻に、ピアノに向かって弾いたのも『梨の形をした三つの小品』だった。
 一九一六年に戻ろう。サティとコクトーは四月二六日にヴァランティーヌのサロンで会い、新たな企画について話し合いをしている。ラルース百科事典で『パラード』というタイトルを発見したコクトーは、フランドル戦線に戻る前にサティに筋書きを書いて送る。サティの思惑がわからないコクトーは、ヴァランティーヌを通じてさぐりを入れようとする。
 前にも書いたように、ミシアがディアギレフに絶大な影響力をもっていることを知っていたサティは、二年前のことを思い出して彼女に手紙を書き、「奥様が「ロシア・バレエ団」についておっしゃったことには、すでに効きめが現われています。現在、私はあるものに取り組んでおり、まもなく奥様のお目にかけられそうです」とそれとなくほのめかす。
 これを知ったコクトーは狼狽する。
 「最初にミシアに相談もせずに、コクトーがデイアギレフのために仕事をしていることを知られただけで、ミシアは十分に敵にまわりかねない。加えて、(中略)ヴァランチーヌにおしのけられて大切な相談役の地位を奪われるなど、許せようはずがなかった。そして、ディアギレフはミシアの言いなりなのだ!」(『書簡から見るサティ』)
 コクトーはあわててミシアに手紙を書くが、だまされかけたミシアは復讐を企てる。サティはサティで、デイアギレフに別の主題でバレエの企画をもちかけ、コクトーをそっちのけでミシアを巻き込もうとする。
 疎外されたコクトーはおろおろとヴァランティーヌに、「ぼくはひどく孤独で苦しんでいます。(中略)お願い、ぼくに手紙を書いて、悪魔を追い払い、サティと会って、なにが起きているのか調べてください」と手紙を書く。
 しかし、コクトーとサティの仲を絶つことに成功したミシアが、ついでにバレエの企画も断ち切ろうとしたため、作曲家はふたたび詩人のもとに戻る。
 一九一六年八月八日、サティはグロスに、ミシアとの関係を絶ち、明日コクトーとの仕事を再開すると書く。
 これだけの騒動を知ったあとで、冒頭に紹介したコクトーの撮影したサティとヴァランティーヌの写真を見ると、感慨深いものがある。八月の日差しを受け、カメラに向かってにこやかに笑っているサティは、撮影者と仲なおりしてまだ一日か二日なのだ。そしてまた、その隣でクールにすましているヴァランティーヌは、コクトーとサティの双方からことの顯末をきかされる立場にいたわけである。
『ピカソと過ごしたある日の午後』の著者ビリー・クルーヴァーは、コクトーが「ラ・ロトンド」でピカソの写真を撮ったのも、「ディアギレフの目に企画がさらに魅力的に映るよう、自分の側に強力な援軍を引き入れる」ためだったのではないかと推理する。
 「八月一二日は、ピカソに『バラード』の装置と衣装を依頼した日だったかもしれない」
 あながち推測だけでもない。のちにコクトーは一九一六年のモンパルナス、(中略)ぼくがピカソに『バラード』をやってくれないかと頼んだのは、《ラ・ロトンド》と《ル・ドーム》のあいだ、通りのまんなかでだった」と回想しているのだから。
 八月二四日、コクトーとサティは連名でヴァランティーヌに手紙を書く。「ピカソがわれわれと『バラード』を制作します」
 こうして、一九一七年五月、台本コクトー、音楽サティ、衣装と装置ピカソという最強の布陣で『バラード』が実現したわけである。
 一九一八年一一月に戦争が終わると、いわゆる「狂乱の時代」が始まる。一九年はじめにはミョーがブラジルから戻ってきて、オネゲルやタイユフェールなど、音楽院時代の仲間が土曜日ごとにガイヤール通りに集うようになる。コクトーが紹介され、まだ兵役についていたプーランクもやってくる。コクトーはヴアランティーヌ・グロスやリュシアン・ドーデを陽気な「土曜会メンバー」に加え、一同はモンマルトルの「プチ・ブソノー」で食事をしたあと、メドラーノ・サーカスにフラテリー二兄弟のパントマイムを観に出かけた。
 これまで見てきたサン=マルソー夫人、ポリニャック大公妃、グレフユール伯爵夫人のサロンの出席者に、ヴァランティーヌ・グロスの名前は見当たらない。サティは『ソクラテス』の作曲中、『バラード』のとき同様、紆余曲折をヴァランティーヌに書き送っているが、サロンでの初演に彼女が立ち会うことはなかった。
 しかし、やはり右岸のメセナと目されていたゴデブスキ家のサロンには通い、一九一七年三月、つまり『バラード』初演二ヵ月前に、未来の夫にしてヴィクトル・ユゴーの曽孫ジャンに出会っている。ジャンは、コクトーが「私の白鳥」と呼んだヴァランティーヌの美しい首すじに惹きつけられた。
 一九一九年三月二一日、サティの『ソクラテス』は「狂乱の時代」のメッカとなったアドリエンヌ・モニエの書店で再演され、客席はジッド、クローデル、フアルグ、フランシス・ジャム、ヴァレリー、ジェイムス・ジョイスらの詩人・作家と、ピカソ、ブラックらの画家、プーランク、ストラヴィンスキーらの作曲家で賑わった。シュザンヌ・バルゲリが歌い、サティがピアノを弾き、コクトーは語り手をつとめた。
 ヴァランティーヌは、もともと右岸の住民だったサティとコクトーがセーヌ河をわたる手助けをし、『バラード』と『ソクラテス』のミューズとなった。
 一九一九年八月七日、彼女がジャン・ユゴーと結婚し、ヴァランティーヌ・ユゴーと名を変えたとき、サティとコクトーが立ち会い人をつとめたのは、至極当然のなりゆきというべきだろう。
(終)

2022年6月14日 の記事一覧>>

より

新メルド日記
執筆・記事TOP

全記事一覧

執筆・記事のタイトル一覧

カテゴリー

執筆・記事 新着5件

アーカイブ

Top