【連載】響きあう芸術パリのサロンの物語10「グレフュール伯爵夫人」(岩波図書 2021年11月号)

 マルセル・プルーストは、今でこそ二〇世紀文学の金字塔『失われた時を求めて』の著者として名高いが、初巻刊行当時は単なる社交界評論家と思われていた。実際に、一九〇三ー四年には「ドミニック」「ホレーショ」という筆名でマチルド皇女、ポリニャック大公妃、ルメール夫人などのサロンについて『フィガロ』紙にレポートを寄稿している。
 一九一二年に第一篇「スワン家のほうへ」が完成したとき、ファスケル、オランドルフ社に自費出版を申し入れるが断られ、『新フランス評論』を刊行しているガリマール社にも拒否されてしまう。一九一三年に刊行されると話題を呼び、.『新フランス評論』で内部批判が起きた。メンバーの一人アンドレ・ジッドはプルーストに謝罪の手紙を書いたが、拒否の理由が「社交界のことを書いた小説と勘違いしていた」というものだった。
 一八九四年五月三一日付『ゴーロワ』紙に「トゥ・パリ(パリの名士たち)」の筆名で掲載された『ヴェルサーユ文学祭』では、世紀末のダンディ、モンテスキュー・フザンザック伯爵が催した祭りの模様が微に入り細を穿って綴られる。「金色燦然たる鉄格子門が、ヴェルサーユ劇場へとまっすぐ通ずる広いパリ大通りに向かって開かれている。鉄柵の一方の端に迫るように瀟酒な翼棟がそびえている。玄関前の砂地の道には幅広の赤絨椴が敷かれ、通路には花々が、バラの花が撒かれている。愛想よい微笑を浮べ、大変心優しい、この閑静な住居の主が招待した友人らを入口で迎えている。木立の蔭に姿をひそめたオーケストラが囁くように甘美な音楽を奏でている。
(中略)
 観客席は満員である。何とすばらしい客たちだろう!まさに、パリの名士名流夫人一堂に会す!
 感じのよい服装のグレフュール伯爵夫人、淡紅色のリラを思わせる色合いの絹のドレスに蘭の花をあしらい、同じ色合いの絹モスリンを肩から垂らし、蘭の花飾りのついた帽子にはリラの色のやわらかい紗がかかっている」(『プルースト全集15』後藤辰男訳)
 モンテスキューの母方の従姉妹グレフュール伯爵夫人が最初にあげられており、それから伯爵夫人や公爵夫人や大公夫人が、彼女たちがまとうドレスや帽子や小物まで含めて詳しく紹介され、その数ざっと五〇名。さらにその夫たちやロダンバック、アンリ・ド・レニエ、ジュデイット・ゴーテイエ、ド・エレデイア
らの文学者……と延々とつづく。ところでプルーストは、新聞に掲載されたその日にモンテスキューに手紙を書き、せっかくご婦人方に見てもらってなおしを入れたのに服飾の記述がカットされている、たとえば「サラ・ベルナールの装いの綿密な描写がなくなって、その代りに曖昧で月並みなことが書かれている……」と文句を言っている。じゅうぶん詳細に描写されていると思うが。
 「文学祭」と銘打たれているのに、実際は音楽と朗読の会だったらしく、レオン・ドラフォスがバッハやショパン、ルービンシュタインを弾き、レシェンベルク嬢がヴェルレーヌやモンテスキュー伯爵の詩を朗読し、サラ・ベルナールがレシェンベルク嬢、バルテ嬢とともにアンドレ・シェニエの「ヴェルサーユを讃えるオード」の各節を分論し……と、これまた延々とつづく。
 のちに『失われた時を求めて』のゲルマント公爵夫人のモデルとなるグレフュール伯爵夫人は、「エドモン・ド・ポリニャック大公妃のサロン」という記事にも登場する。
 「コルタンベール街のホールでの音楽会は、音楽上の観点からしてつねにすばらしく、あるときは『ダルダノス』の上演のような、昔の音楽の完全な演奏を聴くこともできたし、またあるときはフォーレの近作の歌曲全部、フォーレのソナタ、ブラームスの舞踏曲などの、独創的で熱烈な演奏を聴くこともできたのであるが、これらの音楽会はまた社交欄担当記者の常套句を使えば「この上もなく優雅」なものだったのである。しばしば昼日中に催されたこの祭典は、ガラスのプリズムを通して陽光がアトリエのなかに点した無数の微光できらめくのだった。そして、きらびやかで陽気なグレフュール伯爵夫人を、その場所に、つまり良き審判者にして熱烈な支持者の場所、美の女王の場所に、大公が案内するのを目にするのは、心を魅する事がらであった」(同、若林真訳)
 本人に行き着く前に字数が尽きてしまいそうである。
 結婚前の名前をエリザベス・ド・カラマン・シメイといった伯爵夫人は、貧しい貴族の生まれながら音楽に囲まれて育った。彼女の父はシャルル・ド・ベリオとヴュータンに師事したアマチュアのヴァイオリニストで、モンテスキュー=フザンザック家出身の母は、ショパンの最後の弟子の一人にピアノを習い、さらにクララ・シューマンやリスト、グノー、アントン・ルービンシュタインを自宅に招いていたという。

 一八七八年にベルギー貴族のアンリ・グレフュールと結婚。エリゼ宮に程近いアストルグ街八番地に居を定める。一八八八年に父が世を去ると、アンリは爵位を受け継ぎ、同時に莫大な遺産を相続した。伯爵夫人はその美貌と抜群のファッション・センスと相まって、いわゆる「トゥ・パリ」の女王として君臨することになる。アストルグ街のサロン、ポワ・ブドツンの城、ディエッブのヴィラに多くの音楽家を招いで音楽夜会を催した。
 前にも書いたように、誰もが音楽を聴かないでしゃべっていた、というポリニャック大公妃のサロン、自然におしゃべりが止まったというサン・マルソー夫人のサロンと違い、伯爵夫人は客席に「静寂さ」を求めた。コンサートのプログラムには「演奏途中の出入場はご遠慮ください」という注意書きが書きつけられていたという。
 一八八〇年代から開催しはじめたサロンの出演者リストには、ジヤック・ティボーやウージェーヌ・イザイなどのヴァイオリニスト、コンセール・コロンヌの首席チェロ奏者だったピエール・モントゥ、管楽器の室内楽協会を立ち上げたポール・タファネルの名前が見える。
 ピアニストはさすがに多く、エドゥアール・リスレール、ルイ・ディエメール、ラウール・プーニョ、アルフレッド・コルトー、アルトゥール・ルービンシュタインと錚々たる名前が並ぶ。一八八八年にニューヨーク・デビューを果たした天才少年ピアニスト、ヨーゼフ・ホフマンもいた。
 フォーレも、一八八六年ごろからモンテスキュー伯爵の手引きでグレフュール伯爵夫人のサロンに出入りするようになる。夫人は隔週の水曜日に音楽会を開いていたが、八七年のプログラムはすべて,フォーレに任されていたという。「短く、あまり難しすぎず、だが、芸術的で、少数の楽器と女性歌手一人、男性歌手一人のプログラム」という依頼は、当時のサロンの傾向をよくあらわしている。
 同年夏、ディエップのラ・カーズの別荘に滞在したフォーレは、オーケストラのための『パヴァーヌ』を作曲し、夫人に献呈している。
 一八九一年七月二一日、グレフュール伯爵夫人はブーローニュの森で娘の結婚式のために祝宴を企画し、バレエ用に編曲された『パヴァーヌ』を上演した。このときは、モンテスキュー=フザンザック伯爵のテキストによる合唱がつき、オーケストラと合唱団は木立の陰に隠されていたという。
 ところでフォーレは、この年の五月から六月にかけて、当時はセ・モンベリアール侯爵夫人と呼ばれていたポリニャック大公妃が所有するヴェネッィアの「パラッツォ・ヴォルコフ」に滞在し、夫人に捧げた『五つのヴェネツィアの歌』から二曲を初演している。
 一八九〇年、グレフュール伯爵夫人は「フランス音楽協会」を設立する。古い音楽、同時代音楽の分野で、あまり知られていない作曲家の作品を紹介する目的で、既存の協会とは独立した組織を考えたのである。国民音楽協会も同様の目的で設立されたのではあるが、フランクが亡くなり、ヴァンサン=ダンディが引き継いで以来保守化の傾同にあった。
 一八九一年にはオペラ・コミック座でベルリオーズ最後の大作『ベアトリスとベネディクト』をフランス初演し、大成功をおさめている。
 一八八八年三月二二日にポリニヤック大公妃のサロンでシャブリエのオペラ『グヴァンドリーヌ』が上演されたことは前に書いた通りである。その後、公的に演奏される機会はなかったが、一八九二年六月、自分のサロンで作曲家自身に弾いてもらったグレフュール伯爵夫人は、オペラ座の支配人ベルトランにコンタクトをとる。七月一三日にアルトルグ街で試演会がおこなわれ、翌年一二月二七日にフランス初演が実現している。
 一九〇四年からはジャーナリストで興行師のガブリエル・アストリュックと協力関係をむすび、海外好きで知られた彼の影響で、海外のアーティストに目を向けるようになる。同年四月には、サラ・ベルナール座が主催した『リゴレット』の上演を後援、リナ・カヴァリエリとエンリコ・カルーソーのパリ・デビューを演出した。
 伯爵夫人のサロンは、一種のコンクールの役目を果たしたようだ。一九〇四年一二月に新劇場でデビューしたアルトゥール・ルービンシュタインは、まだ一七歳だった。アストリュックから推薦された夫人は、ボワ・ブドランの城に呼んで、イタリアの作曲家カエターニとともに彼のピアノを聴いた。
 「何か弾くように」と言われた少年がショパンの『ポロネーズ』を弾くと、ワーグナー・ファンのカエターニから『マイスター・ジンガー』の序曲を所望される。ルービンシュタインはそれを暗譜で弾き、「技術では、なく、音楽そのものを求める姿勢」に魅せられた夫人は「フランス音楽協会」での支援を決めたという。
 リヒャルト・シュトラウス『サロメ』のパリ初演も、夫人の差し金によるものだった。『ル・タン』と、いう雑誌で、ピエール・ラロが『サロメ』のドレスデン初演に立ち会った記事を読んだ伯爵夫人は、一九〇七年一月にサロンでピアノによる試演会を計画した。
 立ち会ったガブリエル・アストリュックは次のように回想している。「グレフュール伯爵夫人はいつも面白い催しを探索している。アストルグ街のサロンで開催される「フランス音楽協会」でピアノによる作品の譜読みをおこない、それはパリ中の有識者の関心を集めた」
 同年五月六日、アストリュックは作曲家自身の指揮でシャトレ座でのドイツ語による六回の上演にこぎつけた。
 アストリュヅクは、デイアギレフ率いるロシア・バレエ団のフランス側興業主として、宣伝・劇場の手配、資金ぐり、マスコミ対策にかかわっていたが、二人を引き合わせたのもグレフュール伯爵夫人だった。一九〇九年二月に政府側後援者のウラディミール大公が亡くなり、資金難に陥ったとき、グレフュール伯爵夫人はポリニャック大公妃やミシアはじめ、パリ中のメセナに呼びかけて窮地を救った。自身はそこまでの資金がない夫人は、アイディアと豊富な人脈、抜群の集客能力で貢献したのである。
 「フランス音楽協会」主催公演でよく知られているのは、一九一〇年四月一七日、シャトレ座で開かれたマーラー指揮コロンヌ管弦楽団の演奏会である。このときマーラーは自作の『交響曲第二番』も振っているが、アルマ・マーラー『回想記』によれば、列席していたドビュッシーとデュカ、ピエルネが二楽章の途中で席を立ったという。
 このエピソードは、日本国内で出版されているマーラーやドビュッシーの評伝にも紹介されているのだが、まずありえないだろう。
 ピエルネはアルフレッド・カゼッラを助手にリハーサルを仕切っていたし、マーラーに敬意を表するレセプションも主催している。デュカもドビュッシーも、マーラーに失礼な態度をとれない山ほどの理由があったはずだ。
 マーラーは一九〇九年一一月にニューヨークでデュカの『魔法使いの弟子』を振っているし、パリ公演の一、二ヵ月前にもドビュッシーの『夜想曲』や『牧神の午後への前奏曲』を指揮している。彼の辞任のため実現しなかったが、一九〇七ー八年のシーズンには宮廷歌劇場で『ペレアスとメリザンド』もウイーン初演される予定だった。
 それより不思議なのは、一九〇八年七月にパリのエージェントがマーラー夫妻と親しいクレマンソー夫人を介して伯爵夫人にコンタクトをとったとき、夫人が「注目すべき交響曲を書いている著名な作曲家・指揮者」のことを知らなかったらしいことである。
 マーラーを敬愛するカゼッラが彼の作品をパリの聴衆に紹介したいと思い、クレマンソー夫人に仲介を頼んだらしいが、一九〇八年といえば、マーラーは六番までの交響曲を書き、監督をつとめていたウィーン宮廷歌劇場を辞任してニューヨークに渡り、一月に『トリスタンとイゾルデ』でメトロポリタン・デビユーしている。インターネットもレコードもない時代、ウィーンやニューヨークの名声はかくも伝わらないのか。
 その年の一二月、カゼッラはグレフュール伯爵夫人のサロンで、ガブリエル・アストリュックの列席のもと、四手連弾で『交響曲第二番』を弾いてきかせている。このマニフェストが功を奏し、一九一〇年四月一七日、シャトレ座でのコンサートが実現した。
 その三日後、ガヴォーホールでラヴェル率いる「独立音楽協会」のオープニング・コンサートが開催されたのは象徴的
である。初代総裁はフォーレがつとめたが、彼は国民音楽協会との兼任だった。執行委員にはナデイア・プーランジエ、アルチュール・オネゲル、ジャック・イベール、シャルル・ケクラン、モーリス・ラヴェル、アルベール・ルーセル、フローラン・シュミット、アルノルト・シェーンベルク、マヌエル・デ・ファリャ、ベラ・バルトーク、イーゴリ・ストヴィンスキーが名前を連ねている。
 一八九〇年の発足当時は国民音楽協会寄りだったグレフュール伯爵夫人の「フランス音楽協会」だが、「独立音楽協会」の設立に刺激を受けたのだろうか。一九一三年六月二二日、つまりストラヴィンスキー『春の祭典』初演のひと月後にシャトレ座で「ヨーロッパの未刊行作品による演奏会ー独立音楽協会との競演」と題したコンサートを開催している。
 カゼッラの指揮でとりあげられた曲目は、ドビュッシー『イベリア』のようにすでに初演された作品もあったが、ラヴェル『ダフニスとクロエ』第二組曲が初演されるとともに、シェーンベルク『グレの歌』第一部の最後の場、カゼッラの『悲劇へのプロローグ』、シリル・スコットの『クリスマス序曲』、デリウスの『アパラチア』、ヴォーン・ウィリアムスの『ノーフォーク・ラプソディ』のフランス初演など事おとなわれた。
 これが「フランス音楽協会」最後の主催公演となった。

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