【連載】響きあう芸術パリのサロンの物語11「ルメール夫人とプルースト」(岩波図書 2021年12月号)

 出世競争する若者たちはこぞって上流階級のサロンに出入りするが、そのサロンを主催する夫人たちにもまた、出世争いがあった……いうのが、プルーストが『失われた時を求めて』の中で、「薔薇の花の画家」ルメール夫人がモデルの一人と言われるヴェルデュラン夫人を通じて描きだそうとしたことだった。
 ひと口にサロンと言っても、主催するのは上流貴族の夫人ばかりではない。これまで見てきた中にも、ニナ・ド・ヴイヤールやポーリーヌ・ヴィアルド、サン・マルソー夫人がいた。鈴木道彦『プルーストを読む』によれば、ブルジョワの女性が曜日を定めて自宅で招待客をもてなす風習は、七月王政期(一八三〇ー一八四八)にほぼ定着したという。午後の二時から七時ぐらいまでのマチネとそれ以降のソワレの二種類があった。
 プルーストは、「サロンを開くことのできるような裕福な階層で、何よりも貴族の称号を持たない」入々をブルジョワと定義しており、その典型例がヴェルデュラン夫人だった。
 「もと美術評論家だった夫を持つ非常に裕福な婦人で、普段その邸の夕食に顔を見せている常連客を、ときおりレストランや劇場に招待したり、ヨットの周遊旅行(クルージンク)に招いたりして、金にあかせたさまざまな楽しみを彼らに提供するのだが、その集いの購成メンバーは、むろん貴族のサロンとは違っている」(「プルーストを読む』)
 のちに株式仲買人の息子スワンと結婚することになる高級娼婦のオデットは、上流貴族のサロンには出入りできないが、ヴェルデュラン夫人のサロンでは快く迎え入れられる。夫人自身が、上流社会には容れられず、貴族を「やりきれない連中」と呼んで軽蔑するふりをしているが、その実は羨望の念にとらわれている。
 その夫人がランクアップするきっかけは、「新しい音楽」だった。オデットとともにヴェルデュラン夫人のサロンを訪問したスワンは、若いピアニストが弾く未知の音楽を聴く。ヴェルデュラン夫人が「わたくしのソナタ」と呼ぶのは、年老いたヴァントゥイユという老ピアノ教師が作曲した『ピアノとヴァイオリンのためのソナタ』で、そのときはピアノ用に編曲したものが演奏された。
 架空の作曲家による架空の作品は、「きわめて先進的傾向の一派には強烈な印象を与えたものの、一般大衆にはまったく知られていない」(吉川一義訳)類の音楽だった。聞く耳をもたないサロンの出席者にとって、それは「慣れ親しんだ形式とは無縁というほかない音符をでたらめに鍵盤上でつなげているだけ」と感じられた。一九六〇ー七〇年代に流行した二〇世紀音楽も、愛好しない人間にとっては「猫がトタン屋根を歩く音」のよう
に聞こえたらしい。「新しい音楽」に敏感なヴェルデュラン夫人は、ディアギレフ率いるロシア・バレエ団にもいち早く注目し、そのことが「サロンの出世」にも好影響をもたらす。
 「ヴェルデュラン夫人の強みは、芸術に寄せる真摯な愛情であり、信者のために惜しまぬ労苦であり、社交人士を招かず信者のためだけに催すみごとな晩餐会であった」と『失われた時を求めて』の語り手は分析する。
 ディアギレフが一九〇九年にロシア・バレエ団でパリに進出するに当たって、グレフュール伯爵夫人やポリニャック大公妃、ミシア・セールなどのメセナが尽力したことは前に書いた通りだ。『失われた時を求めて』の中では、その功績は、それまでパリジェンヌたちの見たこともない巨大な羽飾りをつけた若いユルベレティエフ大公夫人に帰せられている。そして、「あらゆる外国の芸術家のパリにおけるいわば公式特派員を自任する」ヴェルデュラン夫人もまた、ロシアのダンサーたちにとっての「全能の仙女」の役を果たすようになる。
 「「リュス」の公演のたびに舞台脇のいつもの特別ボックス席のユルベレティエフ大公妃のかたわらにまるで本物の妖精のように座を占める、それまで貴族階級には無名だったヴェルデュラン夫人のすがたが見られるようになる」
 といっても、すぐに彼女のサロンに貴族たちが顔を出すようになったわけではない。
 『失われた時を求めて』の語り手の行動は、当時の社交界の空気を反映しているのだろう。ヴェルデュラン夫人のサロンの招待を決して受けたことがなかった彼は、まず手はじめに、休暇中の別荘を訪ねることを思いつく。たまたま夫人が、ある地方貴族の所有になる海辺の別荘を借りたことを知り、知人に紹介状を書いてもらって晩餐会に出かけていく。
集まった客の中で貴族と言えるのは、館の持ち主カンブルメール侯爵夫人と、ヴアイオリニストのモレルを同伴したシャルリュス男爵ほか一名だった。
 モレルはヴェルデュラン家の音楽夜会の出演者のひとりで、男色者のシャルリエスに見初められていた。彼が夫人のサロンでヴブントゥイユの遺作『七重奏曲』を演奏することになったとき、シャルリュス男爵は、知人の貴族やナポリ王妃を招待し、結果的に夜会の上流度が高まった。
 「その夜、ヴェルデュラン夫人邸には、美術担当の政務次官だという正真正銘の芸術家肌で育ちのいいスノッブな男や、何人かの公爵夫人や、夫人を伴った三名の大使が来ていたが、この人たちが出席した直近の直接の動機は、シャルリュス氏とモレルとの関係にあった。この関係ゆえに男爵は、おのが若きアイドルの芸術上の成功ができるかぎり華々しいものになることを願い、またその若者がレジオン・ドヌール勲章をもらえるようにしてやろうと考えていたのである」
 夜会が終わり、シャルリュスに招待された貴族たちが自分には挨拶もせずに帰っていくのを目にしたヴェルデュラン夫入は復讐を誓う。夫の死後、夫人は妻を失くしたゲルマント大公と再婚して、めでたく貴族の一員になる。
 『失われた時を求めて』のモデルについては、ゲルマント公爵夫人がグレフユール伯爵夫人、その従兄弟モンテスキュー・フザンザック伯爵はシャルリュス男爵とされている。ヴェルデュラン夫人のモデルは、サン・マルソー夫人とも言われるが、『評伝フォーレ』の著者ジャン・ミシェル・ネクトゥはマドレーヌ・ルメールが真のモデルだと断言する。ルメール夫人のお気に入りの作曲家はレイナルド・アーンで、サロンの常連はサン・サーンスやマスネやフォーレだから趣味は保守的。「新しい音楽」によって社交界でのランクアップを狙った形跡はないが、貴族ではないのにあらゆる画策をして上流階級の人々をサロンに迎え入れたところは似ているし、むしろはるかに成功していたかもしれない。
 マドレーヌ・ルメールは一八四五年、南仏のヴァールに生まれた。一二歳で祖母が仕むパリに出て、叔母のエルベラン夫人が主催するサロンでロッシーニやドラクロワ、デュマ父子、マチルド皇女などに会っている。このうちデュマ・フィスとはのちに愛人関係を結ぶ。一四歳のとき、ナポレオン時代の肖像画家シャプランについて絵を習いはじめる。彼のアトリエでカジミール・ルメールと出会い、一八六五年に結婚。その前年、デュマ・フィスのあとおしでサロン・ド・パリに初出展、画家としてのキャリアをみ出した。ついで社交界にパイプのある肖像画家ペローと関係し、サロンに出りするきっかけをつかんだ。
 佐々木涼子「プルーストとマドレーヌ・ルメール」(『三田文学』)によれば、「大柄な身にキンキラキンの夜会服を雑にまとって、数多いパーティの采配をふるう一方、日中は、売れる絵を大量に」描きまくるエネルギッシュな女性だった。花を好み、とりわけ薔薇を多く描いたので「薔薇の花の画家」と呼ばれた。なかなか商売上手で、どんなに小さなでも五〇〇フランはしたという。
 人気画家になったルメール夫人は、パリではモンソー街三一番地の中庭の奥にあるヴェネッィア・ルイ一六世様式のアトリエ、海岸ではマルヌ県のシャトー・ド・レヴェイヨンで客人たちを迎え、ラ・ロシュフーコーはじめフォーブル・サンジェルマンの名士たちが出入した。
 モンソー街では、毎週火曜臼の夜会のほか、詩と音楽のマチネも開かれ、異なるジャンルのアーティストたち、高名な人物と駆け出しの若者との出会いも可能になった。
 「世紀末のダンディ」と呼ばれたモンテスキュー=フザンザック伯爵は、一八九二年ごろから夫人のサロンに出入りしはじめた。プルーストに会ったのもこのサロンだった。フィリップ・ジュリアン『一九〇〇年のプリンス』(志村信英訳)によれば、一八九三年三月二一二日、ジュリア・バルテがモンテスキューの未発表の詩を朗読し、詩人は聞きいっていた。そのとき、ルメール夫人が一人の青年を紹介する。髪は暗褐色で、長い蒼白の顔に素晴らしい眼をしている。
 「この人はあたしの素敵なお小姓なの。マルセル・プルーストさん」
 翌年五月二二日にプルーストは、生涯の友となるレイナルド・アーンに出会っている。このときは、テノール歌手のエドモン・クレモンが、モンテスキューのテキストにレオン・ドラフォスが音楽をつけた歌曲『コウモリ』を歌い、ジュリア・バルテが他の詩を朗読し、ドラフォスはピアノのための『前奏曲』を自演した。
 一八九五年五月二六日、シャトー・ド・レヴェイヨンの別荘でプルーストの『画家の肖像』に想を得たアーンの組曲が初演された。ピアノ独奏はパリ音楽院時代の同級生だったエドゥアール・リスレール。一八九六年には、プルーストの処女作にルメール夫人が一〇〇枚ものデッサンをつけた『楽しみと日々』の豪華本が刊行されている。
 一九〇三年五月一一日、プルーストは『フィガロ』紙に「ドミニック」の筆名で「リラの中庭と薔薇のアトリエ」という記事を書き、ルメール夫人のサロンを紹介している。
 「はじめはサロンではない」と彼は書く」
 「マドレーヌ・ルメール夫人は、はじめはそのアトリエに同僚や友人を集めたのだ。(中略)当初は彼らだけがアトリエに入って、一輪の薔薇がすこしずつ−そしてたいそうすばやく−カンバスの上で生命の蒼白いあるいは深紅色の色調を帯びてゆくのを眺める許可を与えられていた。そして、ガル大公妃、ドイツ皇后、スエーデン国王、ベルギー王妃などがパリにご訪問になった際、アトリエへのご見学をお求めになり、まさかルメール夫人としてもご来訪をお断りするわけにはいかなかったのである。友人のマチルド皇女や弟子のダランベール大公妃が時どきお越しになった」(『プルースト全集15』若林真訳)
 やがて、このアトリエでささやかな集いが催されるようになり、たとえばマスネとサン・サーンスがピアノに向かって演奏するというような、信じられない顔合わせも実現した。
 話題が話題を呼び、パリ中の名士たちがモンソー街の小さなアトリエにおしかけることになる。毎週火曜日の夜会の時刻になると、近隣の道路が車で渋滞を起こす。
 「夜会はやっと始まったばかりなのに、早くもルメール夫人は、もはや一脚の椅子も残っていないことを見てとり、不安な眼差を息女に投げかけている!それは、息女からすれば肱掛け椅子を前に出すべき時なのであろう。さて、人びとが続々と入って来る」
 以下元下院議長、現下院議長、イタリァ、ドイッ、ロシアの各大使、ウラディミール大公妃、グレフュール伯爵夫人はじめ……伯爵夫人、……公爵夫妻、……男爵夫人、『フィガロ』紙主筆のガストン・カルメット、作家のアナトール・フランス、評論家のジュール・ルメートル……と、例によって名前の羅列がつづく。
 「新参の人びとは場所を見つけることを諦めて庭園を一回りし、食堂の階段に陣取るか、控えの間の椅子の上にすっくと立つかである。ギュスターヴ・ド・ロチルド男爵夫人はショーに際しては良い席を取る常連だけれども、レイナルド・アーンがピアノに向かって坐っているのを見るためによじ登ったスッールから、必死になって身をかがめている。カステラーヌ伯爵もいっそう安楽な暮しに慣れたお金持なのだけれども、まことに快適
ならざる長椅子の上に立っている。ルメール夫人はモットーとして-ちょうど福音書のなかでのように、「ここにては、先なる者後になるべし」ということばを選んだかのようであった、あるいはむしろ、アカデミー会員であろうが公爵夫人であろうが、後なる人びとは後に到着した人びとなのである」
 プログラムに「演奏中の私語は禁止」と書いたのはグレフユール伯爵夫人だが、ルメール夫人のサロンはそこまで徹底していなかったらしい。レイナルド・アーンがピアノを弾き、高名なシェイクスピア役者のムネ・シュリが朗読しているにもかかわらず、おしゃべりはやまず、ルメール夫人の禁止令は無視される。
 出席者の一人アンドレ・ジェルマンは「彼女の家は息がつまりそうだった。耐えがたい夜会の中での、長い長い音楽による会話の中断」と不満を述べている。
 グレフユール伯爵夫人のファッションについては微に入り細を穿って描写したプルーストだが、ルメール夫人のいでたちについては触れていない。口の悪いブイリップ・ジュリアンによれば「ニキビ赤鼻を隠すために大きな帽子を被り、大足を隠すべく引裾のドレスを着ていた。彼女が服を着るとは変装することであり、異様な服装をしているのが自分一人でないようにと彼女の催す舞踏会は常に仮装舞踏会であった」という。
 一九〇二年六月の「フォーレ音楽祭」では、ワットーが描いた「雅びなる宴」の情景が再現された。『ゴーロワ』紙によれば、一八世紀の衣装をまとった人々による「タブロー・ヴィヴァン(立体画)」の幕が上がると、フォーレの『パヴァーヌ』が歌われ、踊られた。出席者の一人は、フォーレがピアノを弾き、レイナルド・アーンはフィリップ・ゴーべールのフルートに合わせて歌ったと回想している。
 一年後、ルメール夫人は「ペリキュレス時代のアテネ」をテーマに仮装舞踏会を催した。貴族たちはそれぞれ衣装を着け、舞台風に登場したが、モンテスキュー・フザンザックは、詩人や哲学者の集う夜会に礼を失するとして仮装せず、礼服を着けたプルーストも、毛皮の裏つきのコートにくるまれてすみっこの方に身を隠していたという。

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