「書店との出合い ミステリーの大人買い」(日販通信2014年7月号)

亡祖父はフランス文学者。阿佐ヶ谷の自宅は、その昔、中央線沿線の貧乏文士が集う阿佐ヶ谷会の会場となったところだ。井伏鱒二や太宰治をはじめ、上林暁や木山捷平、外村繁など私小説作家たちのたまり場で、本棚にはその方面の書籍がたくさんある。祖父が翻訳した海外文学全集も各社そろい、稀覯本もあったりして、子供のころから読むものには事欠かなかった。

根っからの本好きなのだが、なぜか書店に行くのは苦手で、新刊書が並んでいるのを見ると頭が痛くなる.なぜだろう。ずっと不思議だったのだが、あるとき理由が判明した。私が読んできた本たちは、祖父やその周辺の作家たちによってセレクトされたものだった。私は自分で積極的に選書することなく、本棚にあったものをただ読んでいればよかったのである。

しかし、書店ではそうはいかない。自分に合わない本、興味が持てない本、むずかしすぎる本があり、その中から読みたい本、読むべき本を探さなければならない。それがとてもプレッシャーだったらしい。

私が書店を利用するのは、もっぱらミステリーを「大人買い」するためである。海外旅行前には、空港の書店で、それこそ棚の端から端まで、という具合に買い占める。都内での演奏会の前、演奏旅行の前、苛立った神経を鎮めるためにはミステリーが一番である。

夜、練習が終わると、JR阿佐ヶ谷駅南口の「書楽」に行く。入口付近は雑誌や観光案内書、レジ前には話題の新刊と型通りだが、書店の個性が感じられるのは正面の書棚。ローズ・マリー・シェルドン『ローマとパルティア』のような歴史書、阿古真理『昭和育ちのおいしい記憶』のような食のエッセイから中村稔『中也を読む』のような評論まで、雑多感がとてもいい。

ミステリーの書棚も、海外ものと和ものがキチンとわかれているし、出版社別の文庫も著者が50音順に並んでいて、わかりやすい。

東野圭吾、内田康夫のミステリーは、文庫が出たら必ず買う。必ずしもミステリーではないかもしれないけれど、伊坂幸太郎のものも買う。宮部みゆきの作品はたいてい長いので、場持ちがしてよい。もちろん、内容もずしりと読みごたえがある。同じく筆力のある篠田節子は書店では買わない。拙書『ショパンに飽きたら、ミステリー』でとりあげさせていただいて以来、新作のたびに贈呈してくださるからだ。

大事なこと。この書店には私の本は置いていない。だから居心地がよい。書き手の中には、新刊が出ると書店の片隅に身をひそめ、こっそり自分の本の売れ行き状況をたしかめる方がいるらしい。あなたは何がなんでもこの本を買いたくなる、とおまじないをかけたり、”気”をとばしたり。

私は恥ずかしがりで、そんなことはとてもできない。むしろ、自分の本が置いてある本屋さんで買い物するときは、面が割れてないか心配になる。もちろん、自意識過剰で、芥川賞作家でもないかぎりそんなはずもないのだが、妙に意識してしまう。

「書楽」の「音楽・映画」コーナーには音楽書も映画の本もなくて、どこからか溢れてきた文学全集や文庫本が占領している。隣の「美術・芸術」コーナーに何冊か音楽書があったので、隠れファンだった忌野清志郎『ネズミに捧ぐ詩』を購入する。ついで、文庫の棚から現代音楽作曲家が登場するイアン・マキューアンの小説『アムステルダム』も。念のため、領収書は世を忍ぶ仮の戸籍名で受け取る。

この書店の難点は、BGMがクラシックなこと。いつ行ってもクラシック音楽がかかっていて、この曲なんだっけ?とか、ピアノ曲なら誰が弾いてるんだろう?等々つい聴いてしまっておちおち本が選べない。こんなにクラシックばかり流しているのだから、音楽書の棚ももう少し充実させてほしいなあ。

2014年7月17日 の記事一覧>>

より

新メルド日記
執筆・記事TOP

全記事一覧

執筆・記事のタイトル一覧

カテゴリー

執筆・記事 新着5件

アーカイブ

Top