昭和を歩く~(2)~
青栁瑞穂宅 大宰ら出入り
旧宅・ゆかりの建物保存の保存の動き
JR阿佐ヶ谷駅(東京都杉並区)から南西に向かい、静かな住宅街の細い路地を歩いていると、玄関先にサザンカやアケビを植えた木造家屋が見えてきた。仏文学者で詩人の青柳瑞穂(1899~1971年)が終の棲家とした家は、往時の面影を濃く残し、丁寧に配された飛び石が玄関の引き戸へと客人を誘う。
「ここは、太宰治や井伏鱒二がくぐった玄関ですね」。今も青柳邸で暮らす孫のピアニスト、いづみこさん(74)が迎え入れてくれた。昭和のひと頃、この家に文士たちが饗宴(きょうえん)や遊戯に集ったという。
かつて、文筆家が集まって住んだことから「文士村」と呼ばれた地域があった。芥川龍之介らが暮らし、”詩のみやこ”と称された田端(東京都北区)が代表格だったが、昭和初期になると陰りが見え始める。田端文士村記念館の木口直子研究員(42)は「電話すら普及していない時代、文壇の中心は文士の家だった。田端では、澄江(ちょうこう)堂(芥川の書斎)が文学の拠点だったが、昭和2年(1927年)に芥川が自殺して求心力がなくなった」と話す。それでも駆け出しの小説家たちは、あちこちで高名な作家を頼つて集まり、研鑽(けんさん)を積んだ。田端に代わって多くの文化人が住んだのが、井伏を中心とする阿佐ヶ谷や、尾崎士郎を中心とする馬込(東京都大田区)の周辺だった。
阿佐ヶ谷の辺りには、1927年に青柳や井伏が移り住み、32年に木山捷平(しょうへい)、33年に太宰や外村繁が引っ越してきた。文士たちは膝をつき合わせて文学を磨き、同人誌を創刊して作品を世に発表し、「阿佐ヶ谷会」を名乗った。娯楽を通じて親睦も深めた。井伏らは「阿佐ヶ谷将棋会」を結成し、作家宅や近場の料理店で大会を開いたり、星取表をつけながら対局したりしたが、やがて軍靴の音が高くなると、「阿佐ヶ谷文芸懇話会」と改称した。井伏は自伝的長編『荻窪風土記』に(会の名前を取替えなくては、世間態が悪くなっていた)と書いている。会員で一番早く召集令状を受けたのは、青柳だった。井伏や外村らに送別されたが、間もなく召集解除となった。
いづみこさんは「井伏を頭領とした家族みたいなものだったのでしょうね」と話す。「阿佐ヶ谷会は文芸サロンでもあり、顔を出せば人間関係も広がった」
文士村の交流は、戦時下の空襲で多くが失われ、戦後も青柳中心に続いた阿佐ヶ谷でも、70年代には途絶えたとされる。いづみこさんは2002年、阿佐ヶ谷文士を愛する現代の文学者らを集めて「新・阿佐ヶ谷会」を結成。文芸評論家や作家らが参加し、青柳邸で酒を酌み交わしながら、座談に花を咲かせた。最近は、近くの料理店に会場を移して開催しているという。
初期からのメンバーで仏文学者の野崎歓さん(65)は、青柳邸について「文士たちが互いの生活領域に食い込みながら切磋琢磨(せつさたくま)した空間の味わいが感じられる。家そのものが、昔の文学が持つ親密さとそのまま通じている」と語る。
近年の東京で、文士の旧宅やゆかりの建物はほとんど見られなくなったが、文士村の面影を残そうという動きもある。東京都大田区は03年、外郭団体を通じて尾崎士郎の遺族から馬込付近にある旧居の土地を購入。建物は寄付を受け、復元工事を経て、08年に尾崎士郎記念館として開館した。
北区は芥川の旧居跡に、かつての建物を模した芥川龍之介記念館(仮称)を建てる予定だ。クラウドファンディングで寄付を募り、これまでに約600万円が集まったといい、26年度中の開館を目指している。北区の担当者は「土地の記憶を生かして、芥川が生きた時代を体感できる施設を目指し、田端エリアの魅力を発信したい一と意気込む。
最近は、文豪をキャラクター化したゲームやアニメの影響か、ゆかりの地を訪ね歩く若者の姿も多い。作家たちが親密に暮らした時代の名残を感じさせる家屋は、街に昭和の色を差す。
旧青柳瑞穂邸の前で、かつて出入りした文士たちへの思いを語る瑞穂の孫、青柳いづみこさん(昨年12月12日、東京都杉並区で)=上甲鉄撮影、画像の一部を修整しました
主な東京の文士村と居住した作家ら
阿佐ケ谷
井伏鱒二、太宰治、上林暁、青柳瑞穂、火野葦平
馬込
川端康成、尾崎士郎、高見順、山本周五郎、宇野千代
田端
芥川龍之介、室生犀星、菊池寛、直木三十五、萩原朔太郎
1954年5月22日、青柳瑞穂(右から6人目)の家に集った井伏鱒二(同2人目)火野董平(同4人目)ら
青柳いづみこさん提供
(文化部 真崎隆文)