【連載】響きあう芸術パリのサロンの物語12「ジャーヌ・バトリ」(岩波図書 2022年1月号)

 ラヴェルの『博物誌』『マダガスカル島民の歌』、ドビュッシーの『恋人たちの散歩道』などを初演しているジャーヌ・バトリは、パリ六区のヴィユ・コロンビエ座で前衛音楽のコンサートを企画し、六人組誕生の立役者の一人となったメゾ・ソプラノ歌手である。
 ラヴェルの弟子で回想録を書いているマニュエル・ロザンタールは彼女について、「あえて言わせてもらうならば、ラヴェルにとっては、年老いた監視役のような女性だった」というふうに表現している。
 「彼女はいわゆる「知性派歌手」の一員だ。これは今日ではばかげた表現かもしれないが、(中略)当時の花形歌手というのは、歌曲のリサイタルはせずに、コンサートではもっぱらオペラのアリアのみだった。クレール・クロワザ、マドレーヌ・グレイ、マルセル・ジェラール、そしてジャンヌ・バトリ(ママ)といった「知性派歌手」たちは、体力や声などあらゆる事情で、劇場での仕事ができなかった。だが、音楽とテクストの持つ、知的側面が、声にもまして魅力のある分野では、すばらしい演奏者になったのである」(ロザンタール『ラヴェル』伊藤制子訳)
 ジャーヌ・バトリの功績については、フランス歌曲を歌わせたら当代一のドーン・アップショウが、一九九一年にシャンゼリリゼ劇場で、彼女が初演した作品を集めて「ジャーヌ・バトリへのオマージュ」と題するリサイタルを開いたことからも窺われる。アップショウのライヴ音源はCD化されているが、ドビュッシー、ラヴェル、サティから、ミヨー、ルーセル、オネゲル、ケクラン、デュティユーといったポスト印象派の作曲家の作品が並んでいる。
 パリのオペラ座の舞台には立たなかったにせよ、新しい譜面を即座に読んで歌うことのできるバトリは、代演の大家でもあった。ラヴェルの歌曲集『シェーラザード』は一九〇四年五月一七日に国民音楽協会でジャーヌ・アットーが初演しているが、同年一〇月二二日、オペラ・コミック座での再演が予定されていた。しかし、直前にアットーが病気になったので、バトリは一時間半で譜読みをしなければならなかった。
 『ツィガーヌ』を初演しているヴァイオリニストのジュルダン・モランジュによれば、「ラヴェルは慌てふためいて彼女の家へ飛んで行き、ぎりぎりの瞬間まで彼女に練習させた」という。二時間後、バトリはオペラ・コミック座の舞台で、「まるで自分のおなじみの曲のうに」『シェーラザード』を歌っていた。
 感激したラヴェルは、楽譜の上にこんな献辞を書きつけた。
 「感嘆すべき音楽家ジャーヌ・バトリさまへ。一九〇四年十月十二日の離れわざへの感謝の念をこめて」(エレーヌ・ジュルダン=モランジュ『ラヴェルと私たち』(安川加寿子・嘉乃海隆子訳)
 ドビュッシーもまた、この初見能力の恩恵を受けた一人だった。
 一九一六年一二月二一日、ある慈善演奏会で『もう家のない子たちのクリスマス』を歌う予定だったローズ・フェアールが、やはり直前になって歌えなくなったため、バトリが代演した。ドビュッシーは、翌日の手紙で謝意を表している。
 しかしながら、一九〇八年に彼女が『ペレアスとメリザンド』のタイトル・ロールを歌いたいと申し入れたとき、ドビュッシーはこんなすげない返事を書いている。
 「まず申し上げておきたいのは、メリザンドの配役について、支配人アルベール・カレ氏に対する私の影響力を過大評価しておられるということです。(中略)先日、私はマジー・テイト嬢という若いアメリカの歌手を聴きました。その声は魅力的で、まさにメリザンドの役柄や感情にぴったりでした。彼女はフランス人ではありませんが、すでにオペラ・コミック座の聴衆は、メアリー・ガーデン嬢のアクセントに慣れています。もちろんあなたのすばらしい才能が新たな創造をなすであろうことも確信しておりますが、繰り返すようですが、私はオペラ・コミック座に対して何もできないのです」(筆者訳)
 バトリは、『ステファヌ・マラルメの三つの詩」も歌いたいと思ったらしい。一九一六年一二月七日、ドビュッシーはデュランに手紙を書き、バトリ夫人は人が容易に逃れることができない類の人物だ、自宅に来て『マラルメ』を歌いたいと言っているのだが、あなたの家で聴くことにしてよいですか?と頼んでいる。
 『マラルメの三つの詩』は一九一四年三月二一日にガヴォー・ホールでニノン・ヴァランの歌、作曲者自身のピアノで初演されている。ところでこのステージを我が国の文豪、島崎藤村が観ていたという驚くべき報告がある。
 ラヴェルのほうの『ステファヌ・マラルメの三つの詩』は、一九一四年一月一四日にバトリが初演した。
 ジャーヌ・バトリの功績は、しかし、近現代の歌曲の初演にのみあるのではない。彼女は、夫である声楽家のエンゲルとともにプレイレ街で日曜日ごとにサロンを催し、多くの作曲家や演奏家ーー著名な人も無名の若者もーーを招いて出会いの機会をつくり、ヴィユ・コロンビエ座の音楽監督代行として、のちに六人組と命名される若い作曲家たちの作品を紹介し、世に送り出したやり手のプロデューサーでもあった。
 ドビュッシーの手紙に見られるバトリのある意味の積極性は、こうした方面でとりわけ効果を発揮したのである。
 六人組の面々の遭遇の連鎖は、さながら玉突きを見る思いがする。一番早い出会いの場は、おそらくミヨーのガイヤール通りのアパルトマンだろう。一九一一二年にパリ音楽院の作曲のクラスで出会ったオネゲルとともに、シェーンベルクやストラヴィンスキー、リヒャルト・シュトラウスの作品を譜読みしている。
 一九一三年には、パリ音楽院に入学したばかりの一四歳のオーリックが、『フランス音楽評論』という雑誌にサティ論を寄稿している。感激したサティがオーリック宅を訪ねてみると、出てきたのは半ズボンをはいた少年だった。
 一九一四年に第一次世界大戦がはじまると、スイス人のオネゲルは故国で軍役につき、健康上の理由で従軍しなかったミヨーはタイユフェールとともに作曲法のクラスに登録する。意気投合した二人は、ガイヤール通りのミヨー宅で、初演されたばかりのストラヴィンスキー『春の祭典』を連弾で試奏したという。
 両親の反対でパリ音楽院に入学できなかったプーランクは、この年からラヴェルの親友で初演者でもあるリカルド・ビニェスにピアノを習いはじめる。
 一九一五年、フランスの「最も名だたる」作曲家たちにフランクについての見解を調査しようと思い立ったプーランクは、サティにも手紙を書いた。サテイは「私は「名だたる」人物ではありません。弱冠五十代であります」と返事をしたという。
 一九一六年にはビニェスと同行したジャーヌ・バトリのサロンでオーリックに紹介され、ついでオネゲルやルイ・デュレ、タイユフェールにも出会う。
 バトリのサロンには、ブラジルに赴く前のミヨーも出入りしていたらしい。
 「エンジェル・バトリの一家がやはり
日曜の夕に音楽をするために、友人達を集めていました。私はゴデブスキーの方
は失礼して彼女のところに行ったものです。何と忘れ難い夕であったことか。(中略)私がマヌーヴリエ及びジャンヌ・ダリエと一緒にドビュッシーの《ヴィオラとフルートとハープのためのソナタ》を演奏したのも、こんな風にしてなのです。それを聴いたデュランから、彼のところで初演するよう求められたのです」(『ダリウス・ミヨー』別宮貞雄)
 ドビュッシーの『フルート、ヴィオラ、ハープのためのソナタ』がデュラン宅で私的に初演されるのは、一九一六年一二月二〇日のことである。
 一九一七年一〇月一一日、バトリは、ヴィユ・コロンビエ座でラヴェルの自作の詩による無伴奏合唱曲『三つの歌』を初演している。このコンサートは、アメリカにわたるジャック・コポーの送別会も兼ねていて、彼の留守中はバトリが音楽監督代行としてすべてのプログラムを任されることになる。
 演目はバロック、古典から近代、同時代音楽の初演と幅広かった。
 「コンサートがつぎつぎに開かれる」と、エヴリン・ユラール刊ヴィルタールは『フランス六人組』で書く。
 「ジャーヌ・バトリはジャンルと作曲家を巧みに混ぜあわせる。コンサート、
講演会、芝居が交代で催され、そのうちいくつかは後世にまで語られるイヴェントとなったーたとえば、アポリネールの講演〈詩人とエスプリ・ヌーヴォー〉である」(飛幡祐規訳)
 アポリネールの講演が行われたのは一九一七年一一月二六日で、タイトルの「エスプリ・ヌーヴォー」は、彼が『パラード』のプログラムのエッセイで使った言葉だ。
 「これまでは、一方に舞台美術と衣装があり、もう一方に振付けがあり、その間にはわざとらしいつながりしかなかった。両者の新しい結合によって、『バラード』から一種の「シュルレアリスム」が生まれた。ここに私はエスプリ・ヌーヴォーの一連の表われの出発点を見る」(同前)
 ブルトンのシュルレアリスム宣言は一九二四年だから、七年ほど先取りしている。
 バトリはアメリカにいる支配人コポーに次のような手紙を書く。
 「私はコロンビエ座の名誉をできるかぎりの力で支えようとしています。簡単なことは何もないし、まだはじめたばかりです。でも、我々が先に進むと、目的も、それに至る方法もはっきり見えてきます。すでに音楽家たちは我々を助け、新しい分野を創造しようと努力してくれています。それが私が望んだことで、それが未来です」(筆者訳)
 一九一七年一二月一一日は、「前衛のマチネ」と題する歴史的なコンサートとなった。デュレのピアノ曲『サーカスの情景』、オーリックの『コクトーの八つの詩』、ユレのヴァイオリン曲『アンダンテ』、ロジェ・デュカスの『アレグロ・アパショナート』、タイユフェールの『トリオ』、ストラヴィンスキーの『ヴェルレーヌの二つの詩』、サティの『古い金貨と古い甲冑』、ロジエ・ド・フォントネーの『クララ・デレブーズに』が演奏され、プーランクの『黒人狂詩曲』が初演された。
 バリトンの声とピアノ、弦楽四重奏、フルート、クラリネットという編成で、ラヴェルの『ソナタ』や『ツィガーヌ』を初演しているエレーヌ・ジュルダン=モランジュがヴァイオリン、ユイガンス音楽堂で「竪琴とパレット」のシリーズを主催することになるフェリックス・デルグランジュがチェロを担当した。
 『黒人狂詩曲』は、プーランクが古本屋で見つけた詩集の「ホノルル」という詩をもとにしている。「リベリア出身のマココ・カンガルー」が偽マダガスカル語で書いたという設定で、まったく意のない音が並んでいるのだが、実は作曲家ロラン=マニュエルの周囲にいたマルセル・オルモワという詩人の作だったらしい。
 ドビュッシーのパリ音楽院時代の同級生で、当時はオペラ・コミック座の指揮者をつとめていたポール・ヴィダルに見せて意見を求めたところ、最初のうちは上機嫌だったが、エリック・サティへの献辞を見たとたん怒り狂い、「何だ、このホノルルとは。お前はストラヴィンスキーやサティの一党とねり歩いとるんだろう」と追い返された。
 憤慨したプーランクが師のビニェスに手紙で報告したところ、サティがかわりに返事をよこして「学派のまぜこぜは禁物です」となぐさめてくれたという。
 おそらくビニェスが口添えしたのだろう、ヴィユ・コロンビエ座の音楽監督代行に内定していたジャーヌ・バトリは『黒人狂詩曲』をとりあげることを決める。知らせを受けたプーランクは「夢のようだ」とビニェスに書く。
 予定されていた歌手がテキストに呆れて降りてしまったため、プーランク自身が声楽部分を担当するというハプニングはあったが、作品は評判を呼び、翌一八年一月一五日にも再演されている。このときのプログラムはタイユフェール『弦楽ソナタ』、オネゲル『アポリネールの詩集「アルコール」から六つの詩』、オーリック『ガスパールとギュイ』、ロラン・マニュエル『ペルシャの七つの詩』、デュレ『鐘』と『黒人狂詩曲』だった。
 ジャーヌ・バトリの功績で特筆すべきは、その尋常ならざるスピード感である。時は第一次世界大戦のさなか。プーランクは一月一七日から兵役につき、バトリは三月にヴィユ・コロンビエ座をいったん閉める。音楽監督代行に就任してからわずか五ヵ月の間にこれだけの作品を紹介したことになる。そして、彼女がぐずぐずしていたら、一九一八年一一月九日に世を去ったアポリネールは永遠に講演に出演できないはずだった。
 戦争はアポリネールの死の三日後に終わり、ヴィユ・コロンビエ座は一二月二日、バトリによるコンサートで再開した。ここで、オネゲルが付随音楽を作曲した『地球のたわごと』が初演されている。音楽は一〇のダンスと、二つの間奏曲とひとつのエピローグからなっている。脚本は若い詩人のポール・メラルが書き、衣装と照明は画家のギュイ・ピエール・フォコネが担当した。
 「劇的というより詩的なテキストは、地上に人間が出現した様子とその潜在性を説明する。控え目で奥深いテキストである。作者はまず、舞台を設定する。それはいたるところであり、どこでもない。物と人間が動く空間である。こうした全体の雰囲気のなかで、ファンタジーと新しさが発揮される」(『フランス六人組』)
 客席にはアンドレ・ジッド、ジヤツク・ルーシェ、モーリス・ラヴェル、フローラン・シュミット、アルベール・ルーセル、パブロ・ピカソ、フェルナン・レジェ、ジャン・コクトーがいた。
 『地球のたわごと』は『バラード』に負けず劣らずのスキャンダルを引き起こしたが、コクトーはのちにこんなふうに回想する。
 「オネゲールとフォコネの『地球のたわごと』で、おめでたい催眠状態にいた者たちはびっくりして飛び起きた。彼らは、スピーカーであるゆる耳に向かって叫んでいた。ー−『生きるんだ、生きるんだ、生きるんだ!』」(同前)
 一九一九年六月二三日、支配人のジャック・コポーが帰国し、バトリの音楽監督時代は終わった。その翌日、バルバザンジュ画廊でのコンサートに出演した彼女は、アポリネールの詩につけたデュレの歌曲集『動物詩集またはオルフェウスのお供』を初演している。

2022年1月26日 の記事一覧>>

より

新メルド日記
執筆・記事TOP

全記事一覧

執筆・記事のタイトル一覧

カテゴリー

執筆・記事 新着5件

アーカイブ

Top