【連載】響きあう芸術パリのサロンの物語6「ドビュッシーとサロン」(岩波図書 2021年7月号)

 クロード・ドビュッシー(一八六二ー一九一八)の父親がパリ・コミューンで逮捕されたことは前に書いた。作曲家が完全な沈黙を守ったため、生前には誰もそのことを知らなかった。ヴェルレーヌ−ランポー事件の目撃者だったことも。
 非常に貧しい生まれでありながら、運命のいたずらでクラシック界に放り込まれたドビュッシーは、幼いころから貴族的な嗜好を示していた、とパリ音楽院時代の同級生で作曲家のピエルネは語っている。
 「彼はうまいもの好きであり、食いしんぼうではなかった。いいものを熱愛したが、沢山あるかどうかは大して重要なことではなかった。音楽院の帰りにプレヴォの店で私の母がおごった一杯のショコラを、彼が味わう流儀とか、あるいはボンノーの店で、仲間たちのように食べでのある菓子で満足するかわりに、ぜいたくなものをならべたガラスのケースから、かわいらしいサンドウィッチやマカロニ入りの小さなパイを、彼が選んでいる流儀とかを、私は今でもよく覚えている。この貧しい、ごくありふれた階級の出の子供は、万事に貴族的な好みをもっていた」(平島正郎『ドビュッシー』音楽之友社)
 食べ盛りの子供が量より質を優先させたというのはかなりなことである。
 クラシック音楽は貴族階級を基盤に発展してきたので、音楽院の学生アルバイトも貴族的だ。一八七九年の夏休みには、ロワール河流域のシュノンソー城で、当時の城主のプルーズ・ウィルソン夫人の楽士として雇われ、不眠に悩む夫人のために明け方までピアノを弾く仕事をしている。ピアノの師匠マルモンテルの斡旋によるものだった。
 翌年の夏休みもマルモンテルの紹介で、チャイコフスキーのパトロンであるフォン・メック夫人の楽士に雇われ、夫人のためにチャイコフスキーの交響曲を連弾で演奏したり、他のおかかえ楽士たちとトリオで演奏したりしながら、ロシアおよびヨーロッパ各地を旅行している。一八八二年など、一一月中旬まで、モスクワからウィーン、パリ、再びウィーンと夫人の一家と行動をともにしていた。メック夫人は三二歳から八歳まで一一人の子持ちだったが、そのうちの一人ニコライはこう回想している。
 「小さなフランス人がやってきた。茶色で、やせて、辛辣で。彼はみんなに面白いあだ名をつける。我々の丸ぽちゃな家庭教師は「休暇中のカバ」。お返しに、我々は彼を「沸騰中のアシル」と名づけたし(自訳)
 アシルはドビュッシーのミドルネームである。
 合唱の伴奏者の仕事もあった。最初のロシア旅行のあと、ドビュッシーは同級生のポール・ヴィダルの紹介でロワイヤル通りのモロー・サンティ夫人の声楽塾の伴奏ピアニストのアルバイトをはじめる。声楽塾では上流階級の夫人たちを集めて週に二度講習会を開いており、ドビュッシーはここで一四歳年上の歌姫ヴァニエ夫人に出会う。
 当時三二歳のヴァニエ夫人は、一一歳年上の夫とコンスタンティノープル街に住んでいた。ドビュッシーの庇護者になった夫妻は、アパートの一室を彼の仕事部屋に提供し、ドビュッシーの創作活動を助けた。貧しい家に生まれ、小学校も通わせてもらえなかったドビュッシーは、不足していた文学的教養をヴァニエ家の本棚で満たした。娘のマルグリットは次のように回想している。
 「彼はせっせと本を読んだ。そして私は、彼が私の教科書のあいだから辞書をひっぱり出してくるのに、なん度も出くわした。彼は辞書から注意深く学んだのである」(前掲『ドビュッシー』)
 一八八四年には、ヴェルレーヌの『雅びなる宴』から五曲と、テオフィール・ゴーティエの詩による『死後の嬌態』、ソプラノとテノールによる『スペインの歌』など計一三曲を浄写し、「彼女によらなければ永遠に生を受けることがなく、彼女の旋律的な妖精の唇を通さずには、その魔法の魅力を永遠に失ってしまうであろうこれらの歌たち」という献辞とともにヴァニエ夫人に贈っている。
 この年に作曲家の登竜門たるローマ賞で大賞を獲得したドビュッシーは、ご褒美にローマ留学の権利を与えられる。潤沢な奨学金をもらい、豪奢なメディチ荘で衣食住を保証されながら、好きなだけ創作にあたることができるという思ってもみない好条件のはずだが、ヴァニエ夫人と別れたくなかったドビュッシーはさんざん出発をひきのばしたあげく八五年になってしぶしぶ出発している。
 一八八七年にパリに戻ったドビュッシーは、八九年に開店した「独立芸術書房」に出入りし、交友関係をひろげていった。書店とはいえ、一種のサロンの雰囲気があったようで、ユイスマンス、リラダン、マラルメ、レニエ、ジッド、ルイス、クローデル、ポール・フォール、画家のルドン、フェリシアン・ロップスらが集い、本のべージをめくり、壁に飾られている絵や版画を眺め、アペリチフを飲みながら歓談する。
 詩人のレニエは、店でのドビュッシーの様子を次のように描写している。
 「誰かがしゃべる。ドビュッシーはきく。本の頁をめくったり、版画を仔細にながめたりしてきいている。彼は、本や細々した飾りものが、好きだった。しかし話は、何時も音楽に戻っていった」(同前)
 「独立芸術書房」は、レニエの『古代ロマネスク詩集』、ルイスの『ビリティスの歌』『アフロディット』、ジッドの『アンドレ・ワルテルの手記』など、出版の機会のない若い詩人の作品を刊行することでも知られた。詩集や小説だけではない、一九九〇年二月には、ドビュッシーの『ボードレールの五つの詩』も刊行されている。
 この歌曲集は、当時の文壇でドビュッシーの知名度をひきあげるのに相当効果があった。パリに数多くあった文学カフェのひとつ「ブラッスリー・プウセ」でドビュッシーに会った劇作家のカテユール・マンデスは、ある私的な集まりでこの歌曲集をきいて感激し、自作の台本でのオペラを依頼する。象徴派の親玉マラルメがドビュッシーに注目するきっかけも、やはり『ボードレールの五つの詩』だった。ドビュッシーは音楽家としてはじめてマラルメの火曜会に出席を許され、九〇年には『牧神の午後』への付帯音楽を依頼されている。これがのちに名作『牧神の午後への前奏曲』に発展する。
 当時ドビュッシーは「片足のテーブルと藁のはみ出した椅子三脚、どうやらベッドらしくみえる物体」というロンドン街の屋根裏部屋に住んでいたが、ここにマラルメが訪ねてきて、彼が借り物のプレイエルで弾く』牧神の午後』を聴いたというエピソードもある。
 一八九三年七月には、やはり「独立芸術書房」から、ロセッティの詩にもとつくカンタータ『選ばれた乙女』の楽譜が出版された。楽譜の出版に先だつ四月、国民音楽協会で『選ばれた乙女』がテレーズ・ロジェらにより初演され、ドビュッシーは、いわゆる「トゥ・パリ」と言われる上流階級の人々の知己を得ることになる。七歳年上の作曲家ショーソンとその義弟で画家のルロールはドビュッシーに近付き、惜しみない庇護を与えた。
 公共建築事業請負人の家に生まれたショーソンはパリ市内のクールセル街に家があり、マルヌ河畔のリュザンシーにも広大な別荘を所有していた。ここに招かれたドビュッシーが、サロンでピアノを弾く様子を写した写真があり、当時の上流階級のサロンの様子がよくわかる。パフスリーブのロング・ドレスを着たショーソン夫人やルロール家の娘たち、詩人のレイモン・ボヌールが思い思いの格好で長椅子にくつろいでいる。子供は床の上に座っている。アップライトのピアノの前にはドビュッシーが座り、ムソルグスキー『ポリス・ゴドゥノブ』の楽譜を弾いている。ショーソンは譜めくりし、ピアノの横に座ったアンリ・ルロールは演奏に聞き入る。ルロール家の娘たちはやがてルノワールの有名な少女画に描かれるだろう。ドビュッシーはそのうちイヴォンヌ・ルロールに恋をするだろう。
 同じ七月、ショーソンの世話で、一七区のギュスターヴ・ドレ街に引っ越す。フランスでは階が下になるほど家賃が上がるのだが、新居は中庭に面した六階で、家具つきの三部屋があり、家賃も光熱費も生活必需品もショーソンもちだった。一八九四年はじめには、ショーソンの義母にあたるエスキュディエ侯爵夫人のサロンで、一〇回連続でワーグナーの楽劇をピアノで弾く仕事がはいった。やはりショーソンの紹介で、名高いサン・マルソー夫人のサロンにも招かれた。
 一八九四年二月、ドビュッシーは夫人のサロンで彼女が歌う『選ばれた乙女』と『叙情的散文』の伴奏をし、作曲中だったオペラ『ペレアスとメリザンド』をピアノで弾いてきかせている。夫人は日記で「それは天啓だった」と書き、「『叙情的散文』も同じく興味深いものだった。ロジェ嬢が国民音楽協会で歌うことになっている。彼女は若き巨匠と婚約中なのだ」とつづけている。
 夫人のすすめで『選ばれた乙女』を初したテレーズ・ロジェと交際していたドビュッシーは、二月一七日の『叙情的散文』の初演後に正式に婚約した。しかし、ドビュッシーが同棲中の貧しいお針子と縁を切っていなかったことが露顕し、破談になってしまう。ショーソンは早速エスキュディエ夫人に手紙を書き、ドビュッシーのサロンへの出演を中止させる。ドビュッシーは上流階級を踏み台に出世する道を閉ざされた。
 一九〇二年に唯一のオペラ『ペレアスとメリザンド』が初演され、「ペレアストル」と呼ばれるファンが形成されると、ドビュッシーの名声はゆるぎないものになった。
 一九〇四年一月には、文芸評論家ルイ・ラロアの紹介でシストリア大公妃のサロンに招かれる。名ピアニスト、ブランシュ・セルヴァが、完成されたばかりのピアノ組曲『版画』を弾き、モリス・バジェスが『叙情的散文』や『マンドリン』を歌った。列席していたサン・マルソー夫人は、彼がもう自分のサロンに出入りしていないことを悔やんでいる。
 フォーレの元歌姫、エンマ・バルダックがドビュッシーの生活にはいってくるのもこのころからである。エンマの息子ラウールがドビュッシーに作曲を習っていたことは前に書いた通りである。弟子入りは一八九九年ごろ、まだ一八歳だった。
 フォーレと別れたのち、エンマのサロンには、ラヴェルが率いる「アパッシュ」(アパッチ族。新しい芸術を庇護する「ごろつき」の意味)が出入りすることになる。
 ドビュッシーの歌曲に興味をもったエンマは、サロンに出入りしていたケクランのピアノで『叙情的散文』や『ボードレールの五つの詩』を歌った。ディエッチー『クロード・ドビュッシーの情熱』によれば、この折にドビュッシーの作品や人となりについてケクランに問いただしたという。
 ドビュッシーへの接近は息子のラウール経由だった。一九〇一年四月、ドビュッシーはラウールやラヴェル、リュシアン・ガルバンといったパリ音楽院の若い学生たちにオーケストラのための『夜想曲』の二台ピアノ版への編曲を頼んでいる。二年後の四月、スコラ・カントルムでの「現代フランス音楽演奏会」の折にドビュッシー自身とリカルド・ヴィニェスによって初演された。
 ラウールとドビュッシーの文通が増えるのは、同年七月以降で、八月二七日の手紙は、「私の母はあなたがたご夫妻に友情を送ります」と結ばれている。八月末、ドビュッシーはそれに応えて「あなたの魅力的な母上」に「心からの忠誠の念」を表明する。
 妻の実家のあるビシャンで夏の休暇をすごしたドビュッシーが一〇月一日にパリに戻ると、ラウールはドビュッシー夫妻を母の家に招いた。エンマは小柄でエレガントで、快活で若々しく、もう四一歳になっていたのに、二九歳のリリーと同じぐらいの年齢にみえたという。ほどなくドビュッシーは、最後の修正をほどこした『版画』の楽譜を献辞つきでエンマに贈っている。
 年があけると、二人の仲は一層深まる。ドビュッシーが歌曲集『フランスの歌』を献呈すると、エンマは彼に花を送った。狂喜したドビュッシーは「私がまるで生きた口にでもあるかのように、これらの花すべてに口づけをしたとしても、どうかお許し下さい」と書く。
 そして運命の六月九日、こんな電報が打たれた。
 「町には雨が激しく降っています。どうか今日の午後、私に少し時間を割いていただけないでしょうか。私は、対位法も展開もなしに、一度あなた「ひとりだけ」をどうしてもわがものにしたいのです」(同前)
 『喜びの島」のスケッチのあるページには「以下の小節は、一九〇四年六月の或る火曜日にそれらを私に書き取らせてくれたバルダック夫人−p・m−に帰属するものです。彼女の恋人クロード・ドビュッシーの情熱のこもった感謝を」と書きつけられている。ところで、暦によれば一九〇四年六月九日は火曜日ではなく木曜日である。
 七月末、ドビュッシーは糟糠の妻リリーを実家に帰してエンマとジャージー島に駆け落ちし、一九〇五年一〇月には一人娘のシュシュが生まれた。
 エンマは実母とドリーも連れてきたため、ドビュッシー家には義理の姉妹が同居することになる。ドリーがフォーレの娘であることは、一九八五年にならないと公表されなかったわけだが、果たしてドビュッシーは知っていたのだろうか。

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