『アルチスト』誌に載ったニナ・ド・ヴィヤール夫人のパリ・デビュー演奏会の批評には、彼女がアンリ・エルツやアントワーヌ・マルモンテル(ドビュッシーのパリ音楽院時代の先生)とともに、オペラ歌手ボーリーヌ・ヴイアルドにも習ったと書いてある。
一八四三年生まれのニナは一三歳からサロンなどで演奏していたという。ニナ一家が一八五九年から住みはじめたシャプタル街は、ポーリーヌが一〇年前から住み、やはりサロンを開いていたドゥエ街から数百メートルしか離れていなかったから、大いにありうることだ。
ポーリーヌ・ヴイアルド(一八二一-一九一〇)の名前は、とりわけショパンとのかかわりで語られることが多い。ジョルジュ・サンドにかわいがられた彼女は、ピガール街やサン=ラザール街のサロンに招かれてショパンのピアノ伴奏で歌い、ノアンの館にも滞在し、ショパンのマズルカを歌曲に編曲し、パリやロンドンでショパンのコンサートに賛助出演した。
しかし、ポーリーヌの飛躍は、むしろショパンの死の年にはじまっているように思う。一八四九年四月には、ポーリーヌが主役に想定されたマイアベーア『預言者』を初演し、ベルリオーズによって「古今最大の芸術家しと絶賛される。その年に開いたサロンからは、サン=サーンス、グノー、フォーレらが巣立った。
彼女はまた、ロシアの文豪ツルゲーネフに愛され、クララ・シューマン、ドラクロワ、フローベール、リスト、チャイコフスキーと親交をむすび、シューマンやブリームスから歌曲を献呈され、一八五九年にはベルリオース編の『オルフェオとエウリディーチェ』(グルック)を初演している。
こうした成功は、少なくともポーリーヌが類まれな美貌で勝ち取ったものではないことぼ明らかである。『オルフェオ』の際の舞台写真(図1)が残っているが、舞台化粧をほどこしてすらも美しいとはいいがたい。肖像画は多かれ少なかれ美化されるが、たとえばサンドの息子モーリスがショパンにピアノの指導を受けるポーリーヌの様子を描いたカリカチュア(図2)では、垂れた大きな目は瞼が半分閉じ、厚い下唇が突き出ていて、あごはひっこんでいる。声も、声域こそ広いが特異なものだったという。
大変皮肉なことに、一三歳年上の姉マリブランは美貌と美声を兼ね備えており、ポーリーヌは姉の影に隠れて育った。ポーリーヌが声楽家として立つ決心をしたのは、一八三六年、姉が落馬事故がもとで二八歳の若さで亡載なった折のことだという。
一八三八年一二月にルネサンス座でパリ・デビュー、三九年五月にロッシー二『オテロ』のデズデモナ役でロンドン・デビューを飾った。その場でパリのイタリア座の支配人、ルイ・ヴィアルドから一〇-一一月の公演への出演を依頼され、デズデモナ役、サンドリヨン役、ロジーナ役を歌い、四〇年二月にはタンクレディを歌っている。その年、ルイ・ヴィアルドと結婚。夫のマネジメントに支えられて活動をつづける。
ショパンは一八三一年にパリに出てきたころ、イタリア座に通いつめ、ポーリーヌの姉マリブランの歌に聞きほれている。妹にも関心をいだいていたが、彼女がパリ・デビューを飾った一八三八年には、サンドとともにマジョルカ島にいたし、フランスに帰国したのちもノアンで静養していたのでイタリア座デビューも観に行けなかった。
ショパンとサンドは一〇月にパリに戻り、ルイ・ヴィアルドと親交のあったサンドはボーリーヌと文通をはじめる(『Paulome Viardot』)
ボーリーヌは一八四〇年一二月一二日にアンヴァリッドで開催されたモーッァルト『レクイエム』でアルトのソリストをつとめたが、このときサンドは彼女に手紙を出し、「二日前からショパンはあなたの歌をきける方法を探しているけれど、まだいつになるか、どの劇場かわかりませんが、もっとも大規模な機会を熱望しています」と書いている。
一八四一年四月二六日、ショパンはパリのプレイエルホールで久しぶりのリサイタルを開くことになり、一八日、サンドは、公演のためロンドンに滞在していたボーリーヌに次のような手紙を送る。
「たいへん、大大ニュースーシップ・シップ坊やが大大大大々的なコンサートをやるの。長いこと友達にやいのやいの説得されて、それでやっとその気になって」(『決定版ショパンの生涯』バルバラ・スモレンスカ=ジェリンスカ、関口時正訳)
このコンサートは大変評判がよかったので、四二年二月二一日、同じプレイエルホールで再びコンサートが開かれ、今度はボーリーヌ・ヴィアルドも共演した。ショパンは『バラード」第三番』『四つの夜想曲』『四つの練習曲』、前奏曲一曲、即興曲一曲、マズルカ一曲。ポーリーヌは第一部で数曲のアリアを歌ったほか、プログラムの最後を自身の歌曲で締めくくり、ショパンがピアノを受け持った。
ポーリーヌはピガール街、ついで四二年七月からはサン=ラザール街でのサンドのサロンに招かれ、ドラクロワ、リスト、タールベルクなどと夜会を楽しんだ。
「この陽気さが静まったとき、ショパンはヴィアルド夫人をピアノの前に招き、メキシコのメロディを歌わせた。それらの歌は忘れがたいものだった。鶯の鳴き声のようにモノトーンで、惹きつけられる。すばらしい以上の演奏だった。すっかり魅了されたサンド夫人は、ヴイアルド夫人の頭を両手でかかえ、抱擁し、賛美し、称賛したあと、自分の膝の上に彼女をのせた」
ショパンとサンドが一八四〇年をのぞき毎年夏を過ごしたノアンの館でも、ポーリーヌは常連だった。ポーリーヌが『ノルマ』を歌うことになったことを知ったショパンは、彼女とリハーサルするためにピアノスコアに編曲した。夜になると、サロンでは小さな即興のコンサートが開かれた。
「ある夜、彼女はピアノの前に座り、第一声がひびいたとき、あまりに感動したので、涙が頬を伝ったのにも気づかないほどだった。サンド夫人は私のとなりにいたが、実然腕をとってヴィアルド夫人の前におしやった。「ほら、すっかり熱くなった彼女を連れてきましたよ」と言いながら」
サンドの代表作と言われる『歌姫コンスエロ』は、ポーリーヌをモデルに一八四二年から四二年にかけて書かれた。
一八四五年の六月、ポーリーヌは一人だけで三週間ノアンに滞在した。彼女は長いこと、ショパンに彼女だけの声楽作品を書いてもらいたがっていた。この滞在中に、モーリス・サンドはポーリーヌがピアノの前に座り、ショパンがその前に立ち、リストの演奏について、とりわけピアノを歌わせる方法について説明している光景をデッサンしている。ポーリーヌはショパンのマズルカを歌曲に編曲する作業をすすめていた。
とても残念なことに、このすばらしい時間も、サンドとショパンの別れによって終わりを告げた。ポーリーヌは何とかサンドを思い止まらせようとしたがうまくいかなかった。別れたあとも、サンドはボーりーヌを通じてショパンの情報を得ていたようである。
一八四八年七月七日、ロンドンのオペラに出演していたポーリーヌは、イギリスに滞在中のショパンのコンサートに特別出演し、マズルカを編曲した歌曲を数曲歌っている。
一八四九年一〇月一七日にショパンが亡くなったあと、三〇日にマドレーヌ教会で葬儀が営まれ、ポーリーヌはモーツァルト『レクイエム』のソリストをつとめた。
ショパンが亡くなった年からクリシー近くのドゥエ街に居を定めたポーリーヌは、木曜日ごとに名高いサロンを開いていた。一八五三年のサロンの様子を描いた木版画には、美しいパイプオルガンを弾きながら歌うポーリーヌと横で見守るルイ・ヴィアルド、オルガンの前に座る子供たち、そして演奏に聞き入る多くの聴衆がみてとれる。
集ったのはサン・サーンス、フォーレ、サラサーテ、グノー、ベルリオーズ、ワーグナー、リストらの作曲家、ツルゲーネフ、フローベール、ミュッセ、サンドらの作家、アングル、ドラクロワ、アンリ・シェフェールらの画家。
錚々たるメンバーだが、その中でツルゲーネフの名はやや意外な印象を与えるかもしれない。これは、ボーリーヌが参加したイタリア座のロシア遠征がかかわっていた。
一八四三年九月、イタリア座は帝国ロシア劇場と契約をむすび、ポーリーヌは来るべきツアーの首席ソプラノ、メゾソプラノ歌手として雇われる。一〇月、ルイとポーリーヌは陸路でサンクト・ペテルブルクに向かう。当時の首都の人口は五〇万人でパリの約半分だった。公演は大成功で、とりわけポーリーヌが『夢遊病の女』を歌ったときは、ニコライ一世夫妻が列席し、皇后が盛大な拍手を送ったことで話題になった。「ラ・フランス・ミュジカル」は、ヴィアルド夫人は「フランスの女王になった」と書いている。
休憩中に、文学者や音楽家のグループが彼女の栄誉を讃えるべく楽屋にやってきた。その中に二五歳のイヴァン・ツルゲーネフもいた。ポーリーヌの歌に魅せられたツルゲーネフは、友人たちを誘い、何回も桟敷席に通った。
このときポーリーヌは二二歳でツルゲーネフは二五歳。彼女は小柄だったが彼は巨軀で、ベルリオーズに似た優雅な美男子、知性と教養にあふれ、完壁なフランス語を話した。ツルゲーネフはポーリーヌの忠実な騎士になった。プライヴェートな会話を通して、彼女のユニークな人柄はロシアには見当たらないと感じた。彼女を通して西洋社会、とりわけフランスへの憧れを満たしていた。ポーリーヌも、見知らぬ人の深い教養と煽情的な魅力に惹かれたが、不思議なことにジョルジュ・サンドへの手紙には何ひとつこの出会いについて記載されていない。声楽家としての成功の嵐で満たされていたようである。
一八四四年の三月にパリに戻るとき、すでにその年の秋の再演が決まっていた。このときのロシアツアーの折、ツルゲーネフはモスクワにいて、ボーリーヌの舞台を観にいくことはできなかった。当時彼は内務省につとめていたが、目の疾患のため四五年に退職して、母親の庇護のもとにいた。しかし、その援助も一八四七年に打ち切られ、ツルゲーネフは金銭的な困窮に直面した。その年の夏、ツルゲーネフはボーリーヌ一家の夏の別荘(クールタヴェネル)を訪れ、彼女の援助のもとに『猟人日記』の大半を執筆している。
このときから二人の関係は一段階進んだようである。二人の文通は、一八四四年三月にボーリーヌが帰国してまもなくはじまり、一八八三年にツルゲコネフが世を去るまで、実に六二六四通にのぼる書簡がかわされた。
ツルゲーネフからの手紙の呼びかけは、一八四七年夏までは「奥様」だったが、それ以降「親愛なるヴィアルド夫人」、または「親愛なる良きヴィアルド夫人」になった。しかし、普通の友人や恋人たちのように「親愛なるポーリーヌ」と書くことはなかった。対してポーリーヌのほうは、いつも「私の親愛なるツルゲーネフ」「親愛なる良きツルゲーネフ」と呼びかけ、一八六〇年の終わりには「私の親愛なるツルグリヌ」と愛称で呼ぶようになる。
貴族であるために外国への往来が自由だったツルゲーネフは、パリとモスクワを行ったり来たりしていたが、一八七一年に完全にヴィアルド家にいついてしまう。ドゥエ街のアパルトマンの三階に本棚と仕事部屋とサロンと寝室が用意された。その恩にむくいるために、ツルゲーネフはブージヴァルの別荘「とねりこ亭」を彼女にプレゼントした。
ツルゲーネフの『はつ恋』は半自伝的小説で、一六歳の少年が年上の公爵令嬢ジナイーダに心惹かれるものの、彼女にはすでに恋人がいて、その相手がほかならぬ父親だったという衝撃の内容だ。ヒロインのモデルは実際に父の愛人だった公爵令嬢だが、自由奔放でまわりの男たちを翻弄する女性像にはポーリーヌの面影も反映されているという。
ツルゲーネフは彼女のためにオペラの台本を三本も書いているが、そのうち『最後の魔法使い』は、一五〇年後の二〇一七年にピアノ伴奏室内オペラの形で初録音された。
一八八三年九月三日、脊髄癌に侵されたツルゲーネフはブージヴァルの別荘で息をひきとった。ポーリーヌは死の床のツルゲーネフが最後の二本の小説を口述するのを書き取っている。独身だった彼の財産と著作権はすべてポーリーヌに遺された。奇しくもその四ヵ月前の五月五日、夫のルイ・ヴィアルドがドゥエ街の自宅で亡くなっている。
ここで誰もがいだく疑問がある。いったいツルゲーネフとポーリーヌはどんな関係だったのだろう。若いころには女遊びもはげしく、五〇年代はじめにはある女性と同棲して子供もなしている彼が、四〇年間もプラトニック・ラヴを貫ぐなどということがありえるのだろうか。ポーリーヌは、「友情」こそがカップルが長続きする決めてだと言っている。彼女によれば、サンドとショパンの関係には「友情」が欠けていた。
「それはとても哀しい話です。私の考えでは、彼らは友情で結ばれていませんでした。この情熱はこわすことができないもので、すべての中で最も美しいものです」
ポーリーヌ・ヴィアルドは一九一〇年五月一八日、八九歳の生涯を閉じた。最後に「ノルマー」と叫んでこときれたという。
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