若く、無名でお金のない芸術家が世に出る手段は、そうは多くない。二一世紀のこんにちでは、それがショパン・コンクールだったりチャイコフスキー・コンクールだったりするわけだが、一九世紀は貴族やブルジョワのサロンがその役割を果たしていた。
鹿島茂『馬車が買いたい!』は、バルザックやフローベール、スタンダールの作品の主人公に注目し、田舎からパリに上り、社交界で一旗あげようともくろむ若者たちの算段を具体的に検証した書である。タイトルにもあるように、社交界に乗り込むためには、何を置いても馬車が必要だった。馬車がなければ上流階級のサロンに行くことができず、サロンでデビューしなければ、文壇・楽壇の大立者や文芸の庇護者に出会うこともできなかった。
時代は少しあとになるが、一八三一年、ワルシャワ動乱でパリに出てきたショパンも同じような努力をしている。
ショパンの場合、スタートにはかなりのアドバンテージがあった。彼はすでにウィーンのケルンテン門劇場でデビューし、「ウィーン劇場新聞」やライプツィヒの「アルゲマイネ・ムジカーリッシュ・ツァイトゥング」でも絶賛されていた。
しかしそれだけでは、口の悪いハイネの表現を借りるなら、ピアノの名人たちが「バッタの大群のように」押し寄せてくるパリでやっていくには十分ではなかったろう。
幸い、彼は二通の推薦状をもっていた。一通はワルシャワでの師エルスネルからパリ音楽院教授で指揮者のルシュールに宛てたもの、もう一通はウィーンでの庇護者マルファッティがパリ楽壇の大立者パエールにしたためてくれたもの。
推薦状を読んだパエールは、早速ロッシーニ、ケルビーニはじめ有力な作曲家たちにショパンを引きあわせ、ピアノ界の重鎮ヵルクブレンナーにも紹介した。通常は冷たくとっつきにくいと思われていたカルクブレンナーも、目の前で自作の『ピアノ協奏曲第一番』を弾いたポーランド青年の才能に深く魅せられ、自分の作品も含めた演奏会を企画し、ショパンのパリ・デビューを仕掛けた。
一八三二年二月二六日、プレイエルホールで開かれたコンサートは大成功で、ショパンはユダヤ人のロスチャイルド家のサロンに招かれ、男爵夫人から弟子入りを志願される。
評判は「トゥ・パリ」、いわゆる上流社会に伝わり、ノアイユ侯爵令嬢、ヴォーデモン公爵夫人、国王の側近のド・ペルチュイ伯爵、エステルハージ伯爵等々の子弟がこぞってショパンに弟子入りを望む。亡命ポーランド人の有力者がマネージャーがわりに条件を定め、ワン・レッスンニ〇フラン(一フラン=一〇〇〇円)という謝礼を告知した。パリ随一の教育者カルクブレンナーが二五フランだったのだから、高額ぶりがわかろうというもの。
一八三三年一月、ショパンは故郷の友人にこんな手紙を書く。
「僕は四方八方から引っ張り凧(だこ)なのだ−上流社会に這入り込み、各国大使やら誰々公爵やら何々大臣やらと同席しているのだが、一体どうしてこんなことができたのか、自分でもわからない。自分からよじ登ろうと思ったわけじゃないからだ。今の僕にとっては、これが一番必要なことで、なぜならここからいわゆる良い趣味が、ここから流行が出てゆくからだ−ひとたび英国大使館かオーストリア大使館で演奏すれば、たちまち人より才能に恵まれていることになるし−ヴォーデモン公爵夫人のお引き立てがあったと言えば、たちまち人より演奏がうまいことになる……」(『ショパン全書簡1831〜1835年パリ時代(上)』関口時正他訳)
「よじ登ろうと思ったわけじゃない」というのは字義通りに受け取ってはいけない。ショパンは、作曲や演奏の才能もさることながら、リストが「貴族のこ落胤のよう」と評したように、みるからに「貴族的」だった。優雅で洗練されたものごし、エスプリに満ちた会話、非のうちどころのない礼儀作法。それは先天的なものもあるだろうし、自身の資質をみきわめた上である程度ターゲットを定めて計算したものでもあろう。
同じ手紙で彼は次のように書いている。
「今日はレッスンを五回することになっている。−大儲けだと思うだろう!−僅かながら二輪馬車(カブリオレ)の方が高くつくし−それに白い手袋だ−これなしでは作法に適わない」
まさに「馬車が買いたい!」である。『レ.ミゼラブル』のマリユス青年のような貧乏学生がカブリオレを時間ぎめで雇うと、一乗りするだけで夕食一回ぶんぐらいのお金がふっとんでしまう。貴婦人を訪問するときやオペラ座に行くときは靴に泥がつかないように馬車を使っても、帰りは歩いて帰るのが普通だったという。
パリに出てきた当座は「だんだんと社交界の人たちと知り合いをつくっているが、ポケットには一ダカットしかない」と嘆いていたショパンだが、二年もたたないうちに流行の最先端をゆくダンディの仲間入りをした。馬車を買うまでのお金はなかったが二輪馬車を借り、御者と召使も雇い、ヴィヴィエンヌ通りの洋服屋でフロックコートを注文し、白麻の下着をつけ、絹のネクタイを三重に巻き、エナメル塗りのブーツをはき、繻子の裏地をつけたマントをはおり、最新流行の帽子をかぶり、身なりをととのえる。
いわゆる先行投資である。
世界をまたにかけて活躍するヴィルトゥオーゾとしては、ショパンは難があった。まず、ピアノを弾く時の音量が小さく、大きな会場やオーケストラとの共演ではよくきこえない。これはカルクブレンナーが指摘したことだが、演奏にむらがあり、コンスタントな演奏活動にはむいていない。作曲家としても、オーケストラ書法に長けていなかったので、オペラや交響曲のような大規模な作品でステイタスを確立させることができなかった。
量より質、規模より繊細さ、大がかりな仕掛けより精緻な工夫を尊ぶサロンの親密な空間での活動は、ショパンの在り方を活かす、おそらく唯一の道だったことだろう。
同じようなことはオペラを書きたがらなかった(結局は書いたが)フォーレについても言うことができる。「五十五歳を迎えても、フォーレの名は未だ世間には知られていなかった」と、ジャン・ミシェル・ネクトゥーは書く。
「例えば、音楽に明るいアマチュアが楽譜屋で彼のとある歌曲を尋ねると、決まって同名の名高い歌手ジャン・バティスト・フォールの作品が示される有様だった」(『ガブリエル・フォーレ』大谷千正編訳)
いっぽう、上流社会のサロンでは、フォーレは有名人だった。一八七〇年代に先生のサン・サーンスに紹介されたポーリーヌ・ヴィアルドー夫人のサロンでは、家族の一員のように迎え入れられ、夫人や娘たちのためにいくつかの歌曲を書き、息子のポールには『ヴァイオリン・ソナタ第一番』を献呈している。娘のマリアンヌとは一時婚約したが、こちらはすぐに解消された。
一八八〇年代にはいるとボーニ夫人(のちのサン・マルソー夫人)のサロンに出入りし、有名な歌曲『夢のあとに』を捧げる。一八九〇年代には、豊かな財力をバックに音楽界の影の立役者となったウィナレッタ・シンガー(のちのポリニャツク大公妃)、プルースト『失われた時を求めて』のゲルマント侯爵夫人のモデル、グレフュール伯爵夫人の寵愛を得、前者には『五つのヴェネッィアの歌』、後者には『パヴァーヌ』を捧げている。
九二年からは、富裕な銀行家夫人エンマ・バルダックのサロンに出入りし、夫人に『優しき歌』を捧げ、娘のエレーヌの誕生に際して連弾組曲『ドリー』を書くことになる。
ある新聞記者のインタビューに応えてフォーレは、「私は社交界での生活に夢中になり、何人かの良き理解者にも恵まれました。大衆には認められなくても、こういった友人たちに理解してもらえたことで、私は満たされていました」(『評伝フォーレ』J・M・ネクトゥー著、大谷千正監訳)と語っている。
しかしまた、環境さえ許せばもう少し「本格的な」作品を書くこともできたわけである。ネクトゥーによれば、フォーレが作曲家としてデビューした一八七〇年春、パリの音楽雑誌の記事はオペラとその歌手たちの記事で埋めつくされていたという。マイアベーアやアレヴィ風の「グランド・オペラ」がもてはやされており、それ以外では、オッフェンバックのオペレッタと民衆的なカフェ・コンセールが人気を集めていた。
こんな状況を打破したのが、一八七一年にサン=サーンスやヴァンサン・ダンディによって設立された国民音楽協会である。会員たちの新作を初演し、劇場音楽以外の作品にも発表の場を与えることで作曲界に風穴をあけた。
フォーレも、一八七〇年以前にはソナタや弦楽四重奏曲を書きたいとは思っていなかったと語っている。
「当時は、若い作曲家の作品が演奏される場などなかったからだ……。サン=サーンスが一八七一年に国民音楽協会を設立した大きな目的は、まさに若い作曲家たちの作品を演奏することにあったのであり、私もそのために室内楽曲を作るようになったのです」(前掲書)。名作『ヴァイオリン・ソナタ第一番』はこうして誕生した。
サロンの女主人にも、新しい音楽を好む人はいた。前衛びいきで知られるグレフュール伯爵夫人は、一八九〇年代はじめ、当時の会長フランクの死去で保守化した国民音楽協会の改革に奔走している。このアイディアがのちの独立音楽協会に発展した。
ポリニャック大公妃のサロンも、シャブリエからストラヴィンスキーまで前衛音楽の発表の場となっていた。ストラヴインスキーには『狐』、サティには『ソクラテス』を委嘱し、フランス六人組のプーランクやミヨー、タイユフェールにも作品を委嘱している。
二〇世紀にはいると、サロンが開かれるのは必ずしも貴族の邸宅ではなく、作品や演奏を売り込む場から、異なるジャンルの出会いの場、前衛芸術の発祥の地へと移っていく。
ラヴェルも、作曲の師フォーレのつてで上流社会のサロンに出入りしていたが、彼をより支援したのは、アテネ街二二番地に住むゴデブスキ家だった。彫刻家の息子シーパとイーダ夫妻は、芸術家たちのために自宅のサロンを開放し、新時代の作曲家や文学者が集った。ラヴェルの『ソナチネ』は彼らに、『マ・メール・ロア』はその子供たちに献呈されている。
シーパの異母姉ミシアは、ディアギレフ率いるロシア・バレエ団の出資者の一人として知られる。彼女は生涯に三度結婚しているが、二番目の夫エドゥワール(『ル・マタン』紙の社主)は大富豪で、一九〇五年にラヴェルが作曲家の登竜門であるローマ賞に五度目の失敗をしたとき、傷心の友を誘って、ヨットで豪華なクルーズの旅に連れ出している。
こうした新しい潮流の恩恵をもっとも受けたのが、エリック・サティだった。若いときはモンマルトルの酒場でピアノを弾き、「戸棚」と呼ばれた、横にならないと身の置き場のない部屋に住んでいたサティは、もう少し人間的な住処を求めてパリ郊外のアルクイユに転居し、仕事めために徒歩でモンマルトルのカフエ・コンセールやミュージック・ホールに通っていたが、暮らしは一向に楽にならなかった。
上流階級のサロンとは縁がなく、アルクイユで子供たちのためのコンサートや音楽教室を主宰していたエリック・サティを中央に引き出したのは、自分を評価しない国民音楽協会を脱退して一九〇九年に独立音楽協会を立ち上げたラヴェルだった。『サラバンド』や『星たちの息子』など初期作品の革新性に注目したラヴェルは、一九一一年初めにガヴォー・ホールでサティの個展を企画し、「天才的先駆者……四半世紀も前に、大胆にも未来の音楽の隠語で話していた人騒がせな新語開発家」と紹介した。
その後に起きたことは、まるで出世すごろくのようである。サティはカフェ・コンセールの歌手ポーレット・ダルティの家で、まだ二〇歳の作曲家ロラン・マニュエルに出会い、すっかり意気投合してしまう。マニュエルは自宅でサティの喜劇『メデューサの罠』を私的に上演し、それを見にきた画家のヴァランティーヌ・グロスは、自宅のサロンでジャン・コクトーに引き合わせる。
一九一六年四月、モンパルナスのユイガンス音楽堂で「ラヴェルとサティの会」が開かれ、従軍中のコクトーも休暇をとってヴァランティーヌ・グロスとともにやってきた。コクトーはロシア・バレエ団のために台本を書いた『パラード』の音楽をサティに依頼し、一九一七年五月、シャトレ座での歴史的な上演が実現する。
『パラード』は、ポスト・ドビュッシーを模索していた次世代の作曲家たちを集結させるきっかけとなった。オーリックとデュレ、オネゲルはユイガンス音楽堂でサティを讃えるコンサートを開く。プーランクは『黒人狂詩曲』を書いてサティに捧げる。
ヴァランティーヌ・グロスがいなければ『パラード』は生まれなかったし、『パラード』が生まれなければ、六人組もまた生まれなかっただろう。
このような展開は、残念ながら集団合議制のコンクールでは望みにくい。
サロンもまた、選別の場ではある。グレフユール伯爵夫人は、リヒャルト・シュトラウスの『サロメ』にしても、マーラーの『交響曲第二番』にしても、まず自分のサロンで試演会を開いてからホール主催者にコンタクトをとった。興業主からアルトゥール・ルービンシュタインの売り出しをもちかけられたときも、まず別荘のサロンで弾かせてみた。有識者に意見を求めたにしても、最終判断は彼女たちの審美眼、嗅覚にかかっている。
国際コンクールでは、さまざまな国のさまざまな経歴のさまざまな世代の審査員たちが、さまざまな国のさまざまな経歴のさまざまな資質の若者たちを審査する。当然そこにはさまざまな政治的要素、国家や民族の都合、主宰者側の都合、楽器メーカーの都合、審査員や教師たちの都合がからみあう。
ときどき、音楽に民主主義は似合わないと思うことがある。誰か一人の審査員がすばらしいと思っても、他の審査員がよい点をつけなければ、勝ち抜くことはむずかしい。一九八〇年のショパン・コンクールでは、ポゴレリチの予選敗退を不服としてアルゲリッチが審査員を辞退してしまった。
芸術に競争は似合わないと思うこともある。ショパンがショパン・コンクールに出場していたら、一次予選で落ちていたろうというのは、音楽学生たちがよく笑い話にする。ショパンのような才能を発掘するためには、コンクールはまったく向いていない。
そしてまた、ローマ大賞に五回失敗したラヴェルも、コンクール向きではなかった。
ましてや、サティにおいてをや、である。