【連載】響きあう芸術パリのサロンの物語2「団扇と夫人」(岩波図書 2021年3月号)

 オルセー美術館に所蔵されているマネの『団扇と夫人』は印象的な絵だ。黒髪の女性がひじをつき、長椅子の上でトルコのサルタンのようなポーズで寝そべっている。
 決して美人ではないが、印象に残る風貌だ。二重の目は大きく、目尻が下がっていて、眉尻もそのラインに沿って少し下がっている。官能的な唇は濃い赤に塗られ、口角を少しひきあげて微笑を浮かべている。それは人を誘っているようにも、あざ笑っているようにも見える。
 豊かな黒髪はシニオンにまとめられ、前髪に鳥の羽根を飾っている。金の刺繍のはいった黒のボレロと黒のスカートを着け、小さな足には中国風のミュール。
 ヴェルレーヌはこう歌った。
 「俗な女じゃない。地獄の精神にひばりの笑いを兼ねそなえているのだ。彫刻家も音楽家も詩人もみな彼女の客。いやはや、何という冬を俺たちはすごしたことか!苦くまた甘い冬だった。サバト!饗宴!」(ピエール・プチフイス『ポール・ヴェルレーヌ』平井啓之・野村喜和夫訳、筑摩書房)
 モデルとなったのはニナ・ド・ヴイヤール夫人(一八四三−一八八四)。パリで無礼講で知られる文芸サロンを主宰し、『高踏派詩集』の第二巻に作品が収録された詩人でもあった。絵が描かれたのは一八七三〜七四年で、ニナは三十代にはいったばかりだったが、たるんだ目の下や頬のラインからはもう少し上の年齢を連想する。ニナが精神を病んで亡くなるのは一〇年後だから、彼女にとってはすでに晩年だったかもしれない。
 ニナが高踏派や未来の象徴派のミューズとなるのは、一八六八年、二五歳のころからである。四年前にエクトール・ド・カリヤスと結婚していたが別居中で、サロンは彼女に夢中になった多くの反体制ジャーナリストや詩人、画家、音楽家たちで賑わっていた。
 ニナは黒髪だったが、金髪好みのはずのステファヌ・マラルメも夢中になり、ヴイリエ・ド・リラダンは生涯の友、アナトール・フランスは愛人だった。モーリス・ロリナ、エミル・グードー、フランソワ・コペ、アルマン・ルノー、ジェルマン・ヌーヴォー、ポール・ヴェルレーヌ、アンリとシャルルのクロ兄弟、ジャン・ド・リシュパンらは、のちにモンマルトル『黒猫』の常連になるだろう。
 接客日は水曜日と日曜日だったが、実際には毎晩門戸が開かれていた。モンマルトルやカルチエ・ラタンの詩人たちは夜一〇時、もっと極端なときは深夜一時からシャプタル街一七番地の三階に押しかけ、朝の五時までどんちゃん騒ぎを繰り広げたという。
  シャンソン作曲家のシャルル・ド・シヴリーは、ヴェルレーヌやその友ルペルチエとともにサロンを訪れたときの印象を、次のように記している。
 「アルジェリア人風の横顔をし、非常に大きな眼をした小柄な女性が、「赤い化粧着をまとい、髪にはダイヤモンドの豪奢な飾りをつけて、扉を開けにやって来た」(前掲書)
 ニナはシヴリーの腕をとりながら、
「あなたがシヴリィ?早くピアノのところに行って!」と言った。
 サロンでは、すさましいカドリールがくりひろげられた。アルバンは彼の魔法のコルネットを鳴らしていたし、シャルル・クロはオルガンで参加していた。
 突然、呼び鈴が鳴らされた。部屋着を着てボンネットをかぶった一人の男がうめく。
 − ニナ・ド・カイヤス夫人、こんな生活をやめてくれないか。
 一同、俳優が演ずるコメディかと思ったが、実は騒ぎで眠れない大家だった。ニナの父親もあまりの騒ぎに耐えられず、ひとつ上の階に小さな部屋を借りて避難したという。
 サロンというと着飾った男女が集う豪奢な空間を連想するが、ニナのところは平服で、出席者たちが「自分の家のように感じる」「どんなに冷たい高踏派の詩人もその不感無覚を失ってしまう」ほど親密な雰囲気だったらしい。
 シヴリーの妹で、のちのヴェルレーヌ夫人マチルドも、「客たちはフロックコートを着用していようが背広だろうがかまわなかった」と回想している。
 「多かれ少なかれ地味な人、普通の人たちはニナのサロンから去っていった。きくところによれば、ヴィヤール夫人はときどき複数のワインを混ぜたそうである。ただもう客たちが酔っぱらうのを見たいがために」
 彼女の家は、居間にかぎらず寝室も浴室も開放されていた。ポール・アレクシスによれば、人々は階段のあらゆる段で、無数の猫や犬、インドの豚(!)に囲まれて食事をしていた。あるやんごとない王子が器用に薪の上に坐って食べているのも目撃されている。
 「ニナは自分の安楽椅子に座り、クッションの山の上に横たわり、トルコ風にひじをついていた」とあるので、ちょうどマネの『団扇と夫人』のポーズを思い浮かべる。
 中庭のテーブルには、ソーセージやコールド・ミート、ワイン、ビールが置かれ、パンタグリュエル的な空腹を満たせるようになっていた。
 ヴイリエ・ド・リラダンはその庭の模様を「ニナ・ド・ヴィラール邸の一夕」というエッセイで雄弁に描き出している。
 「今や、ニナは、日本のけざやかな花模様を描いた部屋着をまとい、木蓮の樹陰、巻煙草を唇にして、アメリカの安楽椅子に坐って左右に身体を揺っていた。彼女のそぱではマラス氏が、煉金道士アンリ.ラ・リュベルヌ氏、並びにかの、好感をそそる学者シャルル・クロス(ママ)を相手に、魔法の奥義について語っていたが、クロス氏の実に基督教徒らしい最近の死は、この星空の一夜を私に想い起させるのだ」(斎藤磯雄訳、東京創元社)。
 この庭園は、ニナが一八七四年に移り住んだモワーヌ街八二番地のほうである。
 ニナのサロンは、最先端の動向をわきまえない詩人にとっては恐ろしい場所でもあった。リラダンは、サロンに紛れ込んだ社交界の伊達者が常連によってボコボコにされる様子を描写している。世は高踏派の時代であった。内容よりも形式的な完成度を重視し、言葉から可能なかぎり意味をそぎおとし、感情ではなく言葉の響きによって再構築する。
 「皆さん、言葉ばかり追い廻していたら、あなた方の詩には瘻々意味が無くなってしまうでしょうが。……」
 伊達者氏がこう言うと、ジャン・ド・リシュパンは冷やかな口調で「意味などは寄生木にすぎません。音響のトロンボンに乗っていくらでも芽生えて来ますよ」と返す。
 「それも結構。しかし、要するにですね、感情というものをどうなさるのです?」と伊達者氏はマラルメに議論をふっかけようとする。
 「哀歌は、現代風俗を物ともせず、御婦人方の間ではやはり大いにもてはやされています。それなら一体、どうしてそれを見棄てるのですかね。− ではあなたは、詩の中で涙を流すようなことが全くないのですか?」
 マラルメはもちろん、「洟もかみませぬ!」と冷たく言い放つ。ニナとサロンの常連の婦人たちは、伊達者氏の目の前で吹き出しては失礼と家の中に引き上げてしまった。
 ニナは、詩人であるとともに、バッハ、ベートーヴェン、ショパン、シューマンを得意とするピアニストでもあり、作曲家でもあった。彼女がモワーヌ街でピアノを演奏する様子を描いた「ニナ・ド・ヴイヤールのサロン」(一八七五−七七)もオルセー美術館に収蔵されている。描いたのはフラン・ラミで、ニナの愛人のひとりでもあった画家だ。
 天井からは日本の提灯とおぼしき照明が下がり、開かれたドアのところでは髭面のヴァイオリニストが演奏している。ニナがグランドピアノの前に坐って演奏し、かたわらにもう一人の髭面の男が立ってタクトをとっている。
 描かれたピアノを古楽器修復の専門家に見てもらったところ、脚のデザインからおそらくエラールだろうとのこと。リストが愛した楽器で、軽やかなタッチ、華やかな音色が特徴だ。
 ニナは、ドビュッシーの先生だったパリ音楽院教授アントワーヌ・マルモンテルや、パリ随一のヴィルトゥオーゾと称されたアンリ・エルツに師事した。エルツはオーストリア出身で、パリ音楽院に学び、リスト、タールベルク、ピクシス、ツェルニー、ショパンとともにベッリーニ『清教徒』の行進曲にもとづく変奏曲『ヘクサメロン』を共作している。
 一八六八年一〇月、ニナはデュマ父が主宰するアーヴルでのコンサートに出演した。彼女のフランス・デビューの模様が、他ならぬ文豪の筆で活き活きと描き出されている。
 「ニナ・ド・カイヤス夫人は小さく、褐色で、すばらしい大きな目とあいまって熱に浮かされたような様子をしていた。音楽上のやや誇張された感情は、そのすばらしくよく動く指に託された。彼女は、天才的な演奏家によくみられる欠点をもっていた。その演奏はふぞろいだったが、すばらしい輝きに満ち、彼女の機知の規範の支配下にあった。ピアノは彼女にとって、楽器ではなく奴隷だった。彼女は彼女が苦しんでいることによって楽器を苦しませた。彼女は鞭のような指で楽器を叩き、嘆き、うめき、そして泣いた」
 なんとなく、ロシアの名ピアニスト、マリア・ユージナを連想する。
 一八六八年一二月一六日、モンテーニユ街のパレ・ポンペイアンでニナのパリ・デビュが開かれ、翌年一月の『アルティスト』誌にこんな批評が載った。
 「休憩前は、ショパンのマズルカにつづくカイヤス夫人の『ロマンス』で締めくくられた。アルセーヌ・ウーセイの詩によるもので、ニナ・ド・リオネル嬢によって歌われた。ショパンのレッスンを「受けるには若すぎたニナ・ド・カイヤス夫人は、彼の弟子と言っても通用するであろう」
 「鞭のような指で楽器を叩く」スタイルはショパンとはかけ離れているのだが。
 一八七四年に、詩人にして発明家のシャルル・クロが描いた「ピアノの前のニナ・ド・ヴィヤール」という絵があるが、ノースリーブのドレスを着け、肩から肉付きのよい腕をまっすぐのばしてなかなかよいフォームで弾いている。
 先にニナのサロンの絵を描いたフラン=ラミが、彼女の愛人のひとりだったと書いたが、ピアノの演奏姿を描いたシャルル・クロこそ、一八六八年から八年間にわたってニナの「オフィシャル」な恋人であった。
 シャルル・クロといえぱ、ナンセンス詩『燻製にしん』や澁澤龍彦がアンソロジーに入れた短編小説『恋愛の科学』で知られているが、彼が詩を書きはじめるのはニナのサロンに出入りしてからのことで、十代のころには医者である兄のアントワーヌと共同で「ピアノ演奏記録装置」を開発するなど、発明家としてのキャリアの方が先だった。
 一八六七年のパリ万博に「自動電信装置」を出品し、同年末にはフランス科学アカデミーに「色彩、形体、運動の記録と再生の手法」という論文を送っている。これがカラー写真の原理「三色写真法」に発展したが、わずか二日の差で他人に先を越されてしまう。
 一八七七年四月には、「聴覚によって知覚された現象の記録と再生の手法」と題した論文を科学アカデミーに送った。「パレオフォン」と名付けた蓄音機の原理で、現在のレコードとほぼ変わりないディスク式によっている。この時点ではアメリカのエディソンに半年先んじていたが、特許をとるのはエディソンの「フォノグラフ」が先だった。
 人間の知覚を科学的に解明しようとするクロの姿勢は、『恋愛の科学』にもよくあらわれている。両親から莫大な遺産を受け継ぎ、科学への熱烈な趣味をもつ主人公は、重力や熱や電気や磁気や光について研究するかわりに、恋愛を探求しようと思い立つ。
 といっても、「ただ楽しむばかりで記述するということを知らないドン・ファン」の態度でも、「やたら感傷的になって冷静な目を曇らせてしまう文学者」の態度でもなく、自分に夢中になっている女性を利用して接吻や抱擁の効果を測ろうというのである。−
 小説では、愛してもいない女性を意のままに操り、せっせと生理的な反応を数値化していくクロだが、実人生では、意のままにならない恋人ニナにふりまわされつづけだった。
 ニナは多情で、常に複数の関係をもち、そのことを隠さなかった。シャルル・クロがシャプタル街に通いはじめたころは、作家のアナトール・フランスと恋仲だった。一八六九年のある日、セーヌ左岸のカフェで、二人の恋敵は殴りあいの喧嘩をしたらしい。フランスに見事なパンチをくらわせたのはクロのほうだった。その仕返しにフランスは『第三次高踏詩集』のメンバーから彼をはずした。
 一八七五年冬、「ニナはあまりにも不誠実なやり方で君を裏切りつづけている」というモーリス・ロリナの忠告でいったん別れたが、またよりを戻し、一八七六年春にはまた別れ、また和解し、六年八月にはクロがジャン・ド・リシュパンに嫉妬してまた別れ……ということをくり返し、最終的に七七年の夏の終わり、ようやく最終的に決別した。
 ニナが作曲家のアイリ・ギイスに心移りしたのが原因だが、翌年五月、クロはあてつけのように結婚し、息子が生まれている。
 シャルル・クロが去ったあと「オフィシャル」な恋人の席についたのはフラン=ラミだったが、この画家はのちに他の女性と関係を結んでいる。当時ニナは三十代終盤にさしかかり、コルセットをつけなかったために身体はふくれ、バストはコルサージュからはみ出ていた。茶色の髪は巨大なビルのようで、大きな黒い目は艶のない、満艦飾の顔を輝かせ……つまり、美貌ではもう勝利をおさめられないことは明らかだった。
 ラミに捨てられたことはニナに衝撃を与えたという。次第に精神の均衡を失い、「自分は死んでいる」と思い込むようになった。
 ゴンクールの日記に書き留められているモーリス・ロリナの回想は胸を打つ。
 「彼女に「お元気ですか?」と何回きいても答えないが、しまいに高笑いしながら「元気じゃないですよ、私は死んでいるのですから」と答える。説得しても無駄だとさとり、「そうですね、あなたは死んでいるんですね。でも、死者は蘇るでしょう?」と言うとうなづく。重ねて「では、ピアノは弾けますよね?」と言うと、彼女は我々に腕をとられてピアノの前に座り、完壁なやり方で演奏する」
 ニナ・ド・ヴィヤール夫人は一八八四年七月二二日、精神病院で死去した。四一歳の誕生日を迎えたばかりだった。

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