パリの地下鉄四号線をシャトー・ルージュ駅で降り、キュステユーヌ通りをのぼり、交差するラメ通りを少し戻って右折したあたりに、ニコレ街という小さな通りがある。治安の悪い一八区にしては瀟洒な町並みだ。
アパルトマンの壁には何やら肖像画らしきペンキ絵が描かれている。細面の怒ったような顔だちは、アルチュール・ランボー。禿げかけた額とは裏腹にもじゃもじゃの口髭を生やしたポール・ヴェルレーヌ。そして、やや横を向いたふくよかな女性はその妻マチルド。
ニコレ街一四番地は、これらの人々が登場する文学史上名高いランボー−ヴェルレーヌ事件の舞台になったところなのだが、道行く人はほとんどその事実に気づいていないようにみえる。無理もない。もう一五〇年前のことなのだから。
そしてまた、当時九歳のクロード・ドビユッシーがその家にピアノのけいこに通い、事件の目撃者になったことは、さらに知られていない。無理もない、音楽と文学の壁は厚いのだから。
発端は一八六九年六月に遡る。ニナ・ド・ヴイヤール夫人のサロンのために喜劇風小歌劇『ヴォコシャール』を計画していたヴェルレーヌは、サロンの常連だったシャブリエに作曲を頼んでいた。四月に台本はできあがったが、肝心のシャブリエは一向に音楽を書いてくれない。そこでシャルル・ド・シヴリーに頼むことにしたが、これまた何週間待っても曲ができない。六月にはいったある晩、じれたヴェルレーヌはニコレ街一四番地にシヴリーを訪ねる。
前の晩夜通しニナの家でピアノを弾いていたシヴリーは起きたばかりだったが、着替えて友と外に出ようとしたとき、兄のことを心配したマチルドが部屋のドアをノックした。
シヴリーは妹にヴェルレーヌを紹介する。二人は、正確に言えぱ初対面ではなかった。その前年、マチルドは彫刻家ベルトー夫人のサロンで上演された兄のオペレッタを聴きに行っているが、そこにはヴェルレーヌも出演していた。兄に連れられてニナのサロンに行ったときも、ヴェルレーヌと顔を合わせていたらしい。
兄から『土星人の詩』と『艶なる宴』を渡されていたマチルドは、「詩人」に夢中になった。ヴェルレーヌも恋に堕ち、早速『土星人の詩』に熱烈な献辞を添えてマチルドに送っている。
その後両親の反対など紆余曲折があったが、一八七〇年六月、ヴェルレーヌとマチルドは婚約し、七月に二人の恋愛を歌った『よき歌』が刊行された。フランスとプロシャの問に普仏戦争が勃発したのは七月一九日のことである。ヴェルレーヌは動員を免れたため、八月一一日、ニコレ街の家でささやかな結婚式がとりおこなわれた。
ヴェルレーヌが、シャルルヴィル在住の少年詩人アルチュール・ランボーからの手紙を受けとるのは、その一年後、一八七一年八月のことである。普仏戦争の敗北、第二帝政の崩壊、パリ・コミューンの乱と激動の一年だったが、市役所の広報局長としてコミューン側に加担していたヴェルレーヌも、逮捕を恐れて妻の実家に身を寄せていた。
ランボーの手紙には詩も添えられていて、ぜひともパリに出たいので援助してほしいと書かれている。一読して非凡な才能を感じたヴェルレーヌは、ニナのサロンに集う詩人のサークル「醜いが気の好い男たち」の面々に相献した。反応ほさまざまだったが、すでに夢中になっていたヴェルレーヌはランボーに手紙を書き、「あなたの狼狂症の臭いのようなものを感じています」と記している。
義母に相談したところ、三階の「下着部屋」なら受け入れてもよいと言われた。そこは、シャルル・ド・シヴリーの部屋の隣で、友達を泊める場所でもあった。ちなみにシヴリーは、パリ・コミューンの巻き添えでサトリーの監獄に収監中だった。ヴェルレーヌは、「醜いが気の好い男たち」から集めたカンパを送り、「すぐに来たまえ、親愛なる偉大なる魂よ、皆があなたを呼び、あなたを待ちわびている」と手紙を添えた。
旅費を受け取ったランボーは、到着日と時刻を知らせてきた。ヴェルレーヌはシャルル・クロをともなって東駅に迎えにいくが、うまく会えず、帰宅してみる’と、妻のマチルドと義母が先に到着したランボーを前に当惑しきっていた。
マチルドはその回想録の中で「赤ら顔の農民」のようで、青いまなざしには人を不安にさせるものがあったと記している。もじゃもじゃの髪、よれよれのネクタイ、しわくちゃの服といっただらしない身なりとぎごちない態度は、プチブルジョワの家庭にはまったくふさわしくなかった。
ふるまいも、まったくふさわしくなかった。一家の主人の象牙の十字架や狩猟ナイフが盗まれた。頭は虱風だらけで、玄関の石段に寝そべって日なたぼっこしていたりする。
詩人たちのグループにも評判が悪かった。「醜いが気の好い男たち」の晩餐会で「高踏派の扉を力づくでこじあけるために」作ったとされる『酔いどれ船』を朗読したとき、当初は「驚くべき力と頽廃とにあふれたその想像力」に魅了されたが、日がたつにつれて、その「病的な錯乱」がうとまれるようになる。
高踏派の大立者バンヴィルの家も訪問したが、巨匠が「あなたの『酔いどれ船』、あれはすぐれたものですけど、ただ、「おれは一艘の船であり……」と最初から言った方がよかったとは思いませんか」と忠告したのですっかりランボーを怒らせてしまった。
ヴェルレーヌはランボーを写真家のカルジャのアトリエにも連れていった。細面で口を一文字に結び、髪を風になびかせ、わすれな草色のまなざしを彼方に向ける唯一無二のポートレイトはこうして撮影された。
ランボーが出現して以来、常に出歩き、帰りが遅く、酩酊状態の夫をみたマチルドは、やっかい者をすぐさま追い払いたいと思い、その通りにした。
最初にランボーの面倒をみたのは、シャルル・クロだった。若い画家と共同で借りていたアトリエに住まわせることにし、親切なバンヴィルがベッドや毛布、洗面道具を運ぱせた。しかし、ランボーが、自分の詩が掲載された「アルティスト」誌のバックナンバーをひきちぎり、あろうことかちり紙がわりに使ったことを知ったクロは怒り、ランボーは姿を消した。あちこち探し回ったヴェルレーヌは、やせこけ、憔悴しきって浮浪者たちの群れの中にいるランボーを発見する。
ところで、「アルティスト」で裂かれたぺージに載っていた詩が「(ヴァイオリンの)弓」だったというのは、偶然にせよおもしろい。というのは、パリ音楽院時代のドビュッシーが、この詩をテキストに歌曲を書いているからだ。
「彼女は美しいブロンドの髪をもっていた
八月に収穫される麦のようにとても長くかかとに届くほどだった」
死にゆく恋人は彼に、「私の三つ編みで弓を作って他の愛人たちを魅惑して頂戴」と頼む。彼は彼女の髪で弓をつくり、クレモナのヴァイオリンを奏でた。その音には、死んだ女の歌声が息づいていた……。
ドビュッシーが『弓』を作曲したのは一八八一年−八二年ころ。さかんにバンヴィルの詩で歌曲を書いていたころだ。貧しい家に生まれ、小学校も通っていないドビュッシーが音楽の道を進むことになるのは、普仏戦争がもたらす数々の偶然が重なった結果だった。
普仏戦争が勃発したころ、パリ二区の石版業の店につとめていたドビュッシーの父親は、戦争のために職を失い、一八七〇年一二月はじめにパリ一区の区役所に転職する。そこはパリ・コミューンの乱を起こす労働者組織の拠点だった。
翌年一月一八日にヴェルサイユ宮殿でプロシャ国王の戴冠式がおこなわれ、ドイツ帝国が誕生した。三月一日にドイツ軍がパリに入城し、シャンゼリゼ大通りを行進した。
家族をカンヌに疎開させたドビュッシーの父親は、三月一五日に国民軍に入隊。三日後にパリ・コミューンの乱が起き、政府側はいったんヴェルサイユに退却するが、五月二一日にパリ城内に突入し、「血の週間」ののち国民軍は敗北。ドビュッシーの父親も捕らえられてサトリーの監獄に収監される。七月二〇日、そこにシャルル・ド・シヴリーが送りこまれてきた。彼の結婚を恨んだ元情婦の密告だったらしい。マチルドによれば、ドビュッシーの父親はここでシヴリーに出会った。
母親とともにカンヌに滞在していたドビッユシーは、土地のヴァイオリン弾きによって音楽の手ほどきをうけはじめていた。おそらく、「耳が良い」というような鑑定がなされたのだろう。父親から息子の音楽の勉強について相談されたシヴリーは、ピアノ教師である自分の母親を紹介しようと申し出たようである。
ドビュッシー自身は、次のように回想している。
「父は、私をボルダ号にやるつもりでした。ところがある人に出会って……。どうしてそうなったのか、私には分かりませんが、「ああ!この子はそれを弾くのか?完壁だ。−−でも、音楽を勉強させなきゃいけない……」というような話になって……。それで、父は音楽について何も知らない人がよくやるように、もっぱら音楽の道だけを進ませることに固執したのです」(『セガレン著作集3』水声社、木下誠訳)
モーテ夫人というシヴリーの母親は(一説にはショパンの門下生とも言われ、ニコレ街の家で弟子をとっていた。こうして、一八七一年秋、九歳のドビュッシーがニコレ街一四番地にやってくる。
ドビュッシーのけいこが始まったとき、ランボーはまだニコレ街にいたのだろうか。少なくともピアノの先生が、娘が巻き込まれた騒動に悩まされていたことはたしかだ。
時系列で追ってみよう。ランボーが上京し、ニコレ街に住みはじめるのが九月中旬。乱暴狼籍のかぎりを尽くして追い出されるのが一〇月中旬。二〇日ごろ、シャルル・ド・シヴリーがサトリーから解放され、ニコレ街に戻ってきた。ランボーはもう立ち去っていたが、夕食に招かれてシヴリーに紹介された。マチルドは、兄がランボーによくない印象をいだいたようで素っ気ない態度を取っていたと回想している。
一〇月二三日、臨月のマチルドは外出中に気分が悪くなり、辻馬車を拾って家に帰って静養していた。ヴェルレーヌは妻をなぐさめるために、シャルルヴィル時代のランボーが本屋で新刊本をくすねて家に帰り、読んでから店に戻すという話をきかせた。ヴェルレーヌにしてみれば笑い話なのだが、マチルドはもちろんそうは受け取らなかった。子供がもうすぐ生まれるというのに一日中家をあける夫にがまんがならなかった彼女は、目に涙をため、「自分よりドロボウが好きなのか」となじる。かっとなったヴェルレーヌは臨月の妻をベッドから突き落とした。幸いなことに、一週間後、無事男の子が生まれた。
一一月はじめ、シャルルヴィル時代の親友のドラエーがランボーを訪ねてニコレ街にやってきた。迎えたヴェルレーヌは、ランボーに会わせてやろうと言って、サン=ミッシェルの異人館に案内する。四階に、シャルル・クロが結成した「セルクル・ジュティック」があった。「ジュット」というのは、フランス人がよく口にする「ちえっ」というような意味で、あまり品のよい言葉ではない。「醜いが気の好い男たち」のメンバーが行けば、カフェより安価でアブサン(にがよもぎのリキュールで当時の詩人たちがよく飲んだ)やラム酒、コニャックを飲むことができた。「アルバム・ジュティック」というサイン帳に、それぞれざれ歌やデッサンを描きつけた。ニナ・ド・ヴィヤールのサロンにも出入りしていた音楽家のカバネルが支配人役をつとめた。
ドラエーがこの「セルクル・ジュテイック」にランボーを訪ねたとき、友は長椅子の上でハッシッシュを吸っていた。
同じころ、サトリーに投獄されていたドビュッシーの父親は軍法会議にかけられ、一八七一年一二月二日に判決が下った。銃殺こそ免れたものの、四年間の禁固というきびしい裁定だった。働き手を失った一家は年の暮れ、ピガール街五九番地の貧しい屋根裏部屋に引っ越す。
この番地は、シャルル・ド・シヴリーが新妻と住んだロシュフーコー街六四番地の真正面なのである。これは偶然ではあるまい。ドビュッシーは貧しく、パリ音楽院の入試を準備している。おそらく、一家が身を寄せていた屋根裏部屋にピアノはなかったろう。とすれば、シヴリーが自分の家に呼んで練習させたであろうことはじゅうぶんに推測できる。
ニコレ街のほうは大変なことになっていた。
年明けの一月一三日、酔って帰宅したヴェルレーヌはささいなことでマチルドと口論になり、赤ん坊を壁に投げつけ、妻の首をしめるという狼籍におよぶ。この騒動で夫妻は別居し、マチルドはランボーがパリにいる限り戻らないと言った。ヴェルレーヌがモーテ家の味方をしているのが気にくわなかったランボーは、「醜いが気の好い男たち」の晩餐会で口論になり、仕込み杖で出席者に切りかかるという事件を起こした。
ランボーが故郷に帰っている間は夫妻の間も平穏だが、戻ってくるとまた暴力がはじまる。ヴェルレーヌはマチルドの髪に火をつける。ランボーはヴュルレーヌの脚にナイフを突きたてた。もう末期現象だった。七月七日、病気で臥せっているマチルドをおいてヴェルレーヌはランボーとブリュッセルに出奔する。
こんな中でもモーテ夫人はドビュッシーに無償でレッスンをつけ、一年足らずの指導でパリ音楽院を受験するレヴェルまで引き上げた。一八七二年一〇月二二日、ドビュッシーは見事ピアノ科の本科に合格する。一五七人の受験生のうち合格者は三三人しかいなかった。それは、モーテ夫人がマチルドの付き添いでブリュッセルに娘婿を連れ戻しに行ってから三ヵ月後、夫妻の離別調停の裁判が開かれてから六日後にあたっていた。
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