【連載】響きあう芸術パリのサロンの物語8「オギュスタ・オルメスとジュディット・ゴーティエ」(岩波図書 2021年9月号)

 オギュスト・ルノワールに『マンデスの三人の娘たち』という有名な絵がある。髪をリボンで結んだ幼い少女はマホガニー色のピアノにもたれかかり、少し年上の娘はヴァイオリンを持ち、年長の娘は片手で犬を抱きながら片手を鍵盤にかけている。
 いかにもブルジョワの家庭らしい優雅な光景だが、娘たちの母親がマンデスの正妻ではなく、愛人だったことを知れば、い印象は一変するだろう。
 劇作家カテュール・マンデスをめぐるトライアングルは、なかなかに豪華なメンバーだ。
 愛人のオギュスタ・オルメス(一八四七ー一九〇三)は、フランス革命百年を記念した『勝利のオード』など大規模な作品を書いた作曲家。妻のジュディット(一八四五−一九一七)は詩人テオフィール・ゴーテイエの娘で、詩人、文芸評論家として活躍した。ジュディットは中国や日本の詩を仏訳したことでも知られる。
 二歳違いの二人に共通しているのは、大変な美人だったこと。彫りが深く、額からまっすぐに鼻筋が通り、古代ギリシャの彫刻になぞらえられる正統的な美貌で、ジュディットはヴィクトル・ユゴーやワーグナーと浮名を流し、オギュスタはサン=サーンスに何度も求婚されたが断り、作曲の師フランクも彼女に熱を上げたと伝えられる。
 母親を早く亡くし、軍人ながら教養あふれる父親にピアノを与えられたオギュスタは、一三歳で作曲をはじめ、ヴェルサイユに移住してからは大聖堂のオルガニスト、アンリ・ランベールについてピアノとオルガンを学び、作曲の手ほどきも受けていた。十代のころからオランジュリー街のサロンでピアノを弾きながら自作の歌曲を歌い、知的エリートを魅了する。
 彼女のサロンにはマラルメ、ドーデらの文学者、サン=サーンス、トーマ、マスネ、ロッシーニらの作曲家が集った。
画家のアンリ・ルニョーは『アキレウスとテティス』に彼女を描き、作家のアン、ドレ・トゥリエは彼女をモデルに『ギニョン嬢』を書くだろう。
 常連の一人、ヴィリエ・ド・リラダンのエッセイでは、サロンでの彼女の様子が華麗な文章で克明に描写されている。
 「油絵、紋章、灌木、彫像、それから昔の書籍を飾った、事実、極めて簡素な趣味のサロンに、たおやかな乙女が一人、大きなピアノの前に腰をおろしていた影(中略)サン・サーンスは自作の『ダリラ』をそこで演奏したばかりであった。オルメス嬢は楽劇の最初の作曲『エフタの娘』を演奏したが、グノーは何か思いに沈んだ驚きの色を浮べてこれに耳を傾けていた。(中略)夜会はワグナーの『ローエングリン』の幾節かを演奏して終ったが、この曲はフランスで新しく出版されたものであり、サン・サーンスが我々にその知識を授けてくれたのであった」(『行路の人々』齋藤磯雄訳)
 一八六一年にパリ初演された『タンホイザー』はオペラの保守派と革新派の間に大論争をひき起こしたが、サン=サーンスやリラダンは熱烈なワーグナー擁護者だった。
 オギュスタの声についてリラダンは、「あらゆる音域に順応して、一作品の極めてささやかな意図をも引立たせるような、あの知的な声に恵まれていた」と書いている。
 さまざまな証言を読むと、彼女の声域はドラマティックなコントラルトだったらしい。下のファから上のソまで出すことができ、「深く、引き裂くような」声だったと、作家のレオン・ドーデは回想している。
 「彼女は、夏の暑さのためすべての窓を開け放ち、美しい声がしわがれる心配もなしに歌った。そのスタイルは独特で、人の心をひきつけ、支配し、シレーヌのような印象を与えた」
 マラルメの友人カザリスは彼女をスフィンクスにたとえている。
 「彼女は、もっとも情熱的な音楽を平静きわまりない表情で歌った。顔のすべてのラインは大理石のようで、神秘的な笑顔はスフィンクスを思わせた」
 『ギニョン嬢』の作者アンドレ・トゥリエによれば、彼女のサロンには男性しか訪れなかった。すべての出席者が美しい女主人の虜になり、ライバルたちに嫉妬していた。彼女はそれぞれのメンバーにファーストネームで呼びかけ、皆を均等に家族のように扱ったという。豪奢な黒の衣装に身を包み、波うつ金髪をなびかせながら、女性としてよりは仲間のような態度で接し、一人からまた一人へと
渡り歩き……。
 いっぽうのジュディット・ゴーティエは、象徴派の始祖ボードレールに『悪の華』を捧げられたテオフィール・ゴーティエの長女として生まれた。母はオペラ歌手エルネスタ・グリジで、高名なバレリーナ、カルロッタの姉に当たる。ゴーティエはカルロッタに惹かれていたが受け入れられず、少しでも彼女のそばにいるためにエルネスタと結婚したという説もある。公演の多い母親のかわりにジュディットの面倒を見たのは父親であった。家庭教師や音楽教師によって教育され、パリ音楽院ではダンスを習い、演劇やコンサートに出かけるなど文化的に充実した少女期を過ごす。
 ジュディットが一二歳のとき一家はパリ郊外のヌイイに引っ越し、木曜日ごとに開かれるサロンにはフローベール、デュマ・フィス、ユゴーらの文学者、画家のシャヴァンヌらが集った。近くにはボードレールの仮住まいもあり、子供時代の思い出をつづったジュディットの回想録『日々の首飾り』には、彼に会ったときのことも書かれている。
 ある日、妹とドミノ遊びをしていると、呼び鈴が鳴った。とても奇妙な人物が音も立てずにはいってきて、軽く会釈した。彼は「法衣をまとっていない司祭」のように見えた。
 父親は「おや、ボードレールだ!」と叫び、彼に手を差し出した。
 彼は口髭を古い因習的な風習とみなして剃り落としていたので、子供の目には司祭のように見えたのだ。初めて目にするものに対してはそうする癖のあるジュデイットは、大きく目を見開いてじっと彼を見つめた。
 ゴーティエが娘を紹介すると、ボードレールは彼女のギリシャ的な美しさに着目して、「まるであなたの夢が実在の形をとって現れたかのようですね」と言ったという。
 一八六二年にロンドンで開かれた万国博覧会に父と同行したジュディットは、サムライ姿の日本人を目にして東洋に興味をもつ。その直後、父が職を失って困っていたチン・チュン・リンという中国人を支援し、家庭教師として雇ったので、ジュディットは彼と共同で中国詩を仏訳することになる。
 マンデスとの出会いは、指揮者のジュール・パドゥルーが一八六一年に創設した「コンセール・ポピュレール(のちのコンセール・パドゥルー)」の市民コンサートがきっかけだった。
 その年の三月に起きた『タンホイザー』事件の余波で、フランスではワーグナーの楽劇が上演できなくなったため、オギュスタのサロンや「コンセール・ポピュレール」で演奏される抜粋だけがわずかなチャンスだった。父のもとに招待券が送られてくることもあり、ジュデイットは妹とともに日曜ごとの演奏会を訪れ、ワーグナーを聴きに来ていた新進気鋭の劇作家カテユール・マンデスに会う。
 ボルドーのユダヤ系銀行家の家に生まれたマンデスは、一八五九年に文学を志してパリに出てきて、翌年、リラダンと『ルヴュ・ファンテジスト』を創刊、ワーグナーを熱烈に擁護している。
 やはりワーグナーを愛するジュディットは、父親の反対にもかかわらず彼と恋仲になってしまう。一八六六年四月結婚。激怒したテオフィールは、いったん親子の縁を切っている。
 一八六九年九月、ワーグナーの楽劇『ラインの黄金』がミュンヘンで初演されることになり、マンデス夫妻はリラダンとともに聴きにいく。ワーグナーの楽劇に接したことがなかったオギュスタも、父親を説得してともにミュンヘンを訪れていた。このときマンデスは−妻が同行していたにもかかわらず−オギュスタの美貌に魅せられ、激しく言い寄ったと伝えられる(オギュスタの評伝を書いたジェラール・ジュファンによれば、二人はもう少し前から関係があったらしい)。
 二二歳のオギュスタは大変に魅力的で、ワーグナーやリストをも夢中にさせたらしい。当時ワーグナーは、内縁関係にあるコジマとともにルツェルン郊外のトリープシェンに住んでいた。父親に伴われてワーグナー家に赴いたオギュスタがピアノを弾きながら自作の歌曲を歌ったところ、感銘を受けたワーグナーは親子を改めて夕食に招待する。オギュスタが再び弾き歌いを披露すると、興奮したワーグナーは彼女に突進してキスしたという。
 コジマの父リストもオギュスタに関心をいだき、コジマはジュディットに宛てた手紙で「ミュンヘンでは父とあの娘が一緒のところに出くわさずにすむ場所はありません。父が彼女をどこにでも連れ歩くものですから」(『女性作曲家列伝』小林緑編著)と書いている。
 そういうコジマ自身も、ビューローという夫がありながらワーグナーとの間にすでに一男二女をなしていた。この時は大いにジュディットに同情し「貴女のお苦しみのほどはよくわかります」(同)と書いたコジマも、後年彼女と夫の関係に悩まされることになるのだから皮肉なものだ。
 ミュンヘンから戻ったオギュスタは妊娠し、一八七〇年五月に長男を生む。『日記』で知られるゴンクールによれば、妊娠中、オギュスタは娘の不適切な関係に激怒した父親に襲われることを心配したが、幸いにも(というべきか?)父は前年の末に亡くなり、オギュスタは莫大な遺産を受けついだ(マンデスはこの遺産をあてにしたふしもある)。
 七二年三月には長女が誕生し、その後も内縁のまま一男二女を産んでいる。ゴンクールによれば、オギュスタは子供が大嫌いだったらしいのだが。
 裏切られた妻の方は、さらに大物との関係が取り沙汰された。一八六七年に中国人のチンと共同で翻訳した『斐翠の書』が刊行され、話題を呼んだ。政治亡命先のガンジー島でこの書を受け取ったユゴーは、こんな手紙を書いている。
 「『斐翠の書』は優美な作品です。言わせていただくと、私にはこの中国の中にフランスが、この磁器の中にあなたの雪花石膏が見える思いです。あなたは詩人の娘にして詩人の奥方、王の娘にして王の奥方、そして女王そのもの。女王というよりミューズ。あなたの曙が私の闇をやさしく照らします」(『フェティシズムの箱』桑原隆行)
 一八七〇年九月に第二帝政が崩壊し、共和制が宣言されるとユゴーはパリに凱旋し、ジュデイットも出迎えた。二人は急接近し、ほどなく親密な関係がはじまったといわれる。
 一八七三年一二月、ユゴーの次男フランソワが亡くなり、フローベールとともに葬儀に出席したゴンクールは、ジュディットのこの世ならぬ美しさを次のように描写している。
 「ふわふわした毛皮をまとったテオの娘は不思議なぞっとするような美しさだった。かすかにバラ色に染まった白い肌で、象牙のように皓(しろ)い大きな歯並び、原始人さながらに、くっきりとした輪郭の口だ。端正で、しかも眠るがごときその顔立ち、眼は大きく、獣のようなまつげはぴんと伸び、まるで黒い小さな針が密生しているかのようだ。だから、薄明かりで視線がぼんやり見えるなどということがない。これらによって、このまどろむような美形に、スフィンクスの牝のいわくいいがたきもの、神秘的なるもの、一個の肉体、現代的な神経などみじんも存しないであろう肉付きが与えられている」(『ゴンクールの日記』斎藤一郎編訳)
 このあとの一節が興味深い。フローべールに「昨晩は、お会いできずに失礼申し上げました」と詫びたジュデイットは、早退の理由を「魔術のレッスンを受けるため」と説明した。実際に彼女は『高等魔術の教理と祭儀』の著者エリファス・レヴィに私淑してカバラの指導を受け、オカルト好きのユゴーにも紹介している。
 一八七四年にマンデスと離婚、七六年にはバイロイトに赴いて『指輪四部作』の初演に接し、『パルジファル』作曲中の巨匠との間にひとときのあやうい関係が生じた。
 オギュスタのほうは事実上の夫マンデスを中心とした高踏派のサークルで自作歌曲を弾き歌いしていたが、一八七五年ごろ、さらなる発展をめざしてセザール・フランクに弟子入りし、室内楽、管弦楽、オペラと活動の幅を広げていく。
 多くの文人同様、フランクもまたオギュスタの魅力の虜になったようだ。『ピアノ五重奏曲へ短調』には彼女への思いが溢れており、夫人や信奉者の顰蹙を買ったらしい。
 一八八〇年一月一七日、国民音楽協会でフランクの同作がマルシック四重奏団とサン=サーンスのピアノで初演された。演奏終了後、作曲者のフランクが差し出した手を、サン=サーンスは顔をそむけて握ったという。ホールには「我が友、サン=サーンスへ」という献辞のはいった自筆譜が遺棄されていた。オギュスタに好意を寄せていたサン=サーンスが露骨な感情描写に嫌悪をいだいたためといわれている。
 一九〇三年月一月二八日、オギュスタ・オルメスが亡くなったとき、ドビュッシーは連載中の『ジル・ブラ』に追悼文を書いた。
 「音楽界はこの死を心から悲しんでいいだろう。夫人は非常な美女だった。また、幸福に必要なものをおそらくすべてもっていた。彼女は好んで音楽の夕べを催した。そんなことをしても、きぬぎぬの寂しさ、曰くいいがたい悲しみがあとに残るばかりだったが。
 彼女はあの巨人〔ヴァーグナー〕と結婚しそこなうほどのヴァーグナー信者だった。この結婚の不成立の真因はいまだ不明のままだが、とにかく彼女はその後ヴァーグナー崇拝を守った。(中略)彼女は無数の歌曲を残したが、どれもすてきな官能性と濃密な音楽性をおびている。『黒い山』というオペラも一つある。これは全然当たらなかった。そんなことはたいしたことではない。彼女のおかげで、魅力的で健康な音楽が聴けたということは、そんなことで帳消しになるものではない」(『音楽のために』杉本秀太郎訳)
 彼女よりひとまわりも年上なのにずっとあとまで生き残ったサン=サーンスは、こんなふうに回想する。
 「私たちはみな彼女に恋していた。文人も学者も画家も音楽家も−彼女を自分の妻にできればどんなに誇らしいことか、と皆がそう思っていた」
 そのオギュスタが結婚することなく五人の子供の母親となり、三〇年近い愛人生活を送ったのだから、これまた皮肉なものである。

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