【連載】響きあう芸術パリのサロンの物語7「サン=マルソー夫人」(岩波図書 2021年8月号)

 一八七五年から一九二七年、つまり半世紀以上にわたって催されていたマルグリット・ド・サン=マルソー夫人の「金曜日」は、一九世紀末からベルエポックにかけてさまざまな出会いの場になった。
 「モーリス・ラヴェルに会ったのは、サン=マルソー夫人のサロンが最初だった」と、ファンタジー・リリック『子供と魔法』にテキストを提供したコレットは書く。
 「四〇年前、サン=マルソー夫人の邸宅での集まりは、単なる社交界の興味以上のものだった。それは音楽への誠実さに対するご褒美、きわめて高度な再創造の場、親密な芸術の砦だった。あまり広くない二つの客間をつなげたサロンは、長い期間作曲家や演奏家などすばらしい音楽家が集うことで知られていた。本当のところ、夫人は誰も探す必要などなかったのだ。彼女の有名な「金曜日」に招かれることを誰もが切望していたのだから。
 すばらしい夕食後の催しでは、女主人は「監視された自由さ」の雰囲気を保つようにつとめていた。彼女は音楽を聴くことを強制しなかったが、それでもささやきひとつ聞こえなかった」
 ところで、サン=マルソー夫人の日記によれば、ライヴァルだったポリニャツク大公妃のサロンでは「音楽を聴かない自由」があるようで、高名な歌手クレール・クロワザが歌っているのに「みんなしゃべっていた。いわゆる「育ちのよい」人々が、まるで不作法な男のようにふるまい、アーティストを聴くために声を潜めることもしなかった」という。
 マレルブ街の「金曜日」にはこんなことは起きなかった。夫人のお気に入りで連弾をともにしたピアニストは次のように回想している。
「ピアノはいつも蓋があけられ、音楽家たちが自由に使うにまかされていた。フォーレがその前に座り、丸い手を鍵盤の上にさまよわせ、歌手が歌うメロディをつまびくと、会話はとだえ、人々は聞き入り、魅了された。あるいは、突然いたずら好きの本領を発揮したフォーレは、ファウスト・ワルツを右手はこ長調、左手は変二長調で弾きはじめる。それは耳障りでむずかしいことだが、人々は大いに沸いた」
 コレットも、フォーレが友人のメサジェと「ひとつの椅子を分け合って四手連弾し、調性からはずれた唐突な転調を競いあう」様子を描写している。
 「こうした悪ふざけは、ワーグナーの『四部作』のライトモティーフを使ったパロディ風カドリールで締めくくられるのが常だった」
 この大騒ぎは、夫人の夏の滞在先キュイ・サン・フィアークルの別荘でもつづけられた。ここには、プレイエルが製造したデュオ・ピアノ(二台のグランド・ピアノが胴体で合体し、対面で鍵盤がついているモデル)が置かれていたようだ。パリのサロンでも、常連のメサジェ、サマズイユ、ブレヴィル、ジヤック・フェヴリエ、フォーレらと、サン=マルソー夫人がいつも連弾していた若い二人のピアニストが四手か八手で競演した。
 一八五〇年に生まれ、サン・サーンスに求婚されるも両親の反対で断り、一八七〇年に画家のボーニと結婚してマレルブ街一〇〇番地でサロンを開いた夫人は、夫と死別し、彫刻家のサン=マルソーと再婚したのちもひきつづき同じ場所でサロンをつづけていた。
 フォーレを寵愛し、資金不足でバイロイトに行けない彼のために富くじをつくってメサジェとともに祝祭歌劇場に送り込んだことは前に書いた通りである。
 フォーレがパリ音楽院の教授に就任すると、夫人のサロンにも門下の若い作曲家たちが出入りするようになる。中でもラヴェルはお気に入りで、やはり常連の作家コレットとの出会いがきっかけで、のちに『子供と魔法』が生まれている。ラヴェルの友人のピアニスト、リカルド・ビニェスもサロンの常連になった。
 サン=マルソー夫人の功績は、二度目の結婚のあと、一八九四年から一九二七年まで、ほぼ毎日詳細な日記を残したことにある。サロンに集った名前は、作曲家だけで三一名、演奏家は二二名にのぼる。夫人は国民音楽協会のコンサートや他のサロンでの催しにも出かけ、そのつど感想を残している。彼女の日記を通して読者は、一九世紀末から二〇世紀初頭にかけてのパリの音楽活動の詳細を、臨場感をもって追体験することができるだろう。
 一八九八年一二月二日には、フォーレが初演されたばかりの連弾曲『ドリー』を若いピアニストと演奏している。サン=マルソー夫人は日記で「彼は耳が聞こえなくなっている。可哀相に」と記している。フォーレの耳の疾患は一九〇三年以降は顕著になっていったが、その前から苦しんでいたのだろう。
 『ドリー』を初演したのはコルトーとリスレール(プルースト『失われた時を求めて』にも出てくるピアニスト)だが、サン=マルソー夫人の日記には、リスレールのリサイタル(一九〇四年一月一一日)の感想も書きつけられている。
 「彼はベートーヴェンの『ソナタ作品一一一』をすばらしく弾いた。リストも同じように良かったが、フォーレの演奏は凡庸だった。それは正確すぎて空気の通りが悪かったように思う。にもかかわらず彼はすさまじい成功をおさめた」
 「空気の通りが悪い」という表現がおもしろい。毎日のようにフォーレ自身がサロンに来て、即興演奏したり、夫人の歌を伴奏したりしていたのだから、それは不満が残るだろう。
 こんなエピソードも楽しい。一九〇四年一月二二日、サロンにイギリスのドビュッシーと称されるシリル・スコットがやってきた。出席者はブレヴィユ、ビニェス、アーン、アンリ・フェヴリエ(ジヤックの父)、ラヴェル。
 「夕食のあと、スコットが自作を延々と披露した。アーンは上の空で聴いていた。この若いイギリス人のずうずうしさは大変なものだ。天性のものには恵まれているが、音楽的書法は整理が悪く、オーディションを悲惨なものにしていた」シリル・スコットは二週間前の金曜日にも出演したようで、列席していたリカルド・ビニェスは「彼が演奏したあと、ドビュッシーの『版画』を弾くように頼まれた。これほどのイギリス音楽のあとで耳をリフレッシュするために」と書いている。
 サン=マルソー夫人の日記で一番興味深いのは、ドビュッシーの『ペレアスとメリザンド』をめぐる一連のエピソードだろう。
 コレットは、『ペレアス』初演の指揮をすることになっていたメサジェが夫人のサロンで音出しするシーンを目撃している。当時オペラ・コミック座の音楽監督をつとめていたメサジェは、支配人カレにもちかけ、長く上演先が見つからなかった『ペレアス』の上演をとりつけた功績者でもあった。
 「ある夜、私は『ペレアスとメリザンド』の楽譜がはいってくるのを見た。それは、アンドレ・メサジェの両腕の中に抱きかかえられていて、まるで彼が盗んできたみたいだった。彼はピアノの前に座り、錆びたトタンのような声で歌いながら譜読みをはじめた。彼は途中で止まり、また弾きはじめ、そうだ、そうだ!とつぶやくのであった。メリザンドの役を歌うときは、ほとんど目を閉じていた……」
 サン=マルソー夫人の日記によれば、それは一九〇二年四月二五日のことであるらしい。初演予定は二三日だったが、原作者のメーテルリンクが妨害しようとしたため三〇日に延期されていた。
 三月二一日、メサジェと夕食をともにしたサン=マルソー夫人は、ことの顛末をきかされている。
 ヒロインのメリザンド役に、メーテルリンクは愛人のジョルジエット・ルブランを推し、ドビュッシーにも話していたが、彼は返事を保留していた。その後、メサジェが推薦したメアリー・ガーデンに決まったため、メーテルリンクは激怒した。しかるにメアリー・ガーデンは当時メサジェの愛人だったから、考えようにょっては愛人対決とも言える(『ペレアス』初演後》ドビュッシーもガーデンに言い寄ったが、「あなたは私の中にメリザンドの面影を見ているのよ」とやんわり断られたという)。
 著作権協会に持ち込んでうまくいかなかったメーテルリンクは、杖をもってドビュッシーの家に乗り込んだらしい。ボクサーでもあった彼は屈強な体躯の持ち主だったが、無抵抗な様子のドビュッシー相手になすすべなく退散した。そのかわりメーテルリンクは、四月一三日、つまり予定されていた上演の一〇日前に『フィガロ』紙に寄稿し、上演は自分の意に反して行われるもので、「華々しい失敗を望む」という意向を示した。
 二八日の公開総練習は、騒然たる雰囲気の中でおこなわれたという。一部のシーンでは怒号と冷笑がとびかい、三幕では抗議の声が拍手喝采を上回った。
 サン=マルソー夫人は日記に次のように書く。
「聴衆は笑った。すばらしい子供のシーンは茶化された。ルージョンの考えは無礼千万だ。この音楽は絶対的に傑作なのに、聴衆は何ひとつ理解していない」 主宰者側が、聴衆が反応した二つの場について削除するように申し入れたのだ。
 サン=マルソー夫人には、『ペレアスとメリザンド』の道行きを案ずる理由があった。夫人が日記を書きはじめるのは一八九四年二月だが、初回でとりあげられているのが、この『ペレアスとメリザンド』なのである。
 「夜はドビュッシーを夕食に招いた」と夫人は日記に記す。
 「彼は私に『選ばれた乙女』を歌わせた。彼の歌声はいつも通り悪声だったが、アクセントは正確だった。翌日、彼は『ペレアスとメリザンド』の完成しているすベての部分を弾いてくれた。それは天啓だった。ハーモニーも書法もすべて新しく、しかし音楽的だった」
 三月九日には、その年の一二月に初演される『牧神の午後への前奏曲』を聴き、「オーケストレーションしてみなければ正しい判断はできない。しかし、このままでも音楽は興味深いものだった」と感想を書きとめている。
 しかし、前の章で書いたような理由によって、ドビュッシーは三月二〇日を最後に夫人のサロンから姿を消した。『牧神の午後への前奏曲』初演の翌日、サン=マルソー夫人はフォーレとメサジェを招いているが、日記にはドビュッシーの話題は出ていない。
 サン=マルソー夫人のサロンの特徴は「譜読みしだった。『牧神』や『ペレアス』のように作曲されたばかり、あるいは初演を控えた作品をピアノや歌で音出しするのである。
 ピアノをドビュッシーの師でもあるマルモンテル、歌をロマン・ビュシーヌに師事した夫人は、プロフェッショナルなキャリアを夢見たこともあるが、当時の上流階級の子女には許されていなかった。そのかわり彼女は、サロンの女主人という立場の特権を活かして、ドビュッシー自身のピアノで『選ばれた乙女』を、フォーレのピアノで『優しき歌』を、ラヴェルのピアノで『クレマン・マロのエピグラム』を歌うという幸運に恵まれている。プッチーニがパリを訪れたときには、彼をサロンに招き、『マノン・レスコー』を歌ったという。
 サロンに客人がいないとき、あるいは家族だけの集まりのとき、サン=マルソー夫人は初見能力の高い若いピアニストと連弾で、新しい作品の譜読みをした。
 この方法で、ラヴェルの『スペインの時』を初演の二年も前に弾き、日記に「とても楽しい音楽」という感想を書きつける。
 必ずしも夫人の気に入る音楽ばかりではない。リヒャルト・シュトラウス『エレクトラ』は一九〇九年二月一五日に譜読みし、「なんという野卑な音楽だろう」と日記に書く。新しい音楽にあまり強くなかった夫人は、一九一三年六月二日、ストラヴィンスキー『春の祭典』の再演を聴き、次のような感想をのべている。
 「会場は騒然としていた。人々は、やや苛立たしいが興味深いところもある芸術のマニフェスタションについて、聴きもしないで抗議しようとしている。この音楽は感じるより考察するものであり、響きの研究は作曲家の唯一の関心事であるように思える。そこには議論の余地のない演劇的色彩がある。ダンサーたちは踊らず、床を踏みならしている。これらすべては滑稽ではあるが、興味深い新しい芸術を打ち立てようという試みが感じられる」
 一九一四年四月二六日にモントゥの指揮で再び『春の祭典』の上演に接した夫人は、まず同じ作曲家の『ペトルーシュカ』を初演から三年もたった五月四日に譜読みし、「新しい音楽、リズミックで奇妙だが惹きつけられる。感動を呼ぶ音楽ではないが、生命力に満ちている」と感想を述べている。
 ようやく五月一〇日に『春の祭典』を初見で弾いてみた夫人は、「とにもかくにもとんでもない音楽だ。私は二台ピアノ用の『イベリア』のほうがチャーミングで好きだ」と書く。変拍子の連続で世界の名指揮者ですら振り間違えるという『春の祭典』を初見で弾けるというのは、相当な読譜力なのだろう。文中の『イベリア』とは、ドビュッシーの管弦楽のための『映像』第二曲で、一九一〇年にカプレの編曲で楽譜は出版されているが、作曲家とビニェスが初演するのは一九一三年六月一九日のことである。
 こんな風に最前衛の音楽にもトライするサン=マルソー夫人だったが、もともとの耳は保守的で、彼女のサロンにストラヴィンスキーやサティが出入りすることはなく、ディアギレフ率いるロシア・バレエ団やフランス六人組にも関心を示さなかった。
 しかし、オペラ・コミック座の音楽監督、オペラ座の副支配人を歴任したメサジェがサロンの常連であったため、お気に入りの作曲家に紹介して上演を仲介することは可能だったわけである。
 たとえば、デオダ・ド・セヴラックの『風車の心』は、一九〇六年二月に夫人のサロンで、オペラ・コミック座の支配人のカレの列席のもとで私的に上演されている。それに先だつ手紙でセヴラックは「すでに最近のリハーサルを聴いたメサジェやフォーレが推薦してくれているので、一発で決まるだろうと言われた」と書いている。実際に『風車の心』は一九〇九年一二月にオペラ・コミック座で上演された。
 ドビュッシーも夫人のサロンにもう少し長く出入りしていたら、『ペレアスとメリザンド』の初演時期(一九〇二年)はもっと早まったかもしれない。

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