Les doigts bavardent 2
ドビュッシーはどう弾いた?
もう何年も前に『天使のピアノ』というCDをレコーディングしたときのこと。さる知的障害児更生施設で発見された古いピアノを弾きながら、ピアノの持ち主だった方の童話や自分のエッセイを朗読した。
私のエッセイにさしかかったところで、テキストをチェックしていたエンジニアさんが「青柳さん、言葉が違っていますよ・・」と指摘してきた。あ、でも書いたのは私で、そこは同じような意味でどうでもいいんですど…。笑いながら私は、作曲家にもきっと同じようなことがあるんだろうなと思った。
「そこはどうでもいい」音、と「そこだけは何があっても間違えてほしくない」音と。近年は作曲家の自作自演録音も出まわっていて、彼らが必ずしも自分の書いた楽譜をそのとおり弾いていないこともわかっている。私が研究するドビュッシーなどその最たるもので「レントより遅く」などまるで別の曲みたい。
ピアノの先生を対象にした勉強会で、ドビュッシーがピアノ・ロールに録音した「子供の領分」を紹介したことがある。すわ、オーセンティックな演奏、と楽譜を追いながら聴いていた先生方、大いに混乱し「あの一、ずいぶん違っているんですが、ドビュッシーが書いたとおりに弾けばよいんでしょうか、それとも弾いたとおりでしょうか?」という質問がきた。
まさか恐山に行ってドビュッシーの霊を呼び出すわけにもいかないので、かわりに答えておいた。
「もちろん、楽譜に書いてあるとおりです」
ドビュッシーはパリ音楽院で2等賞(1等賞だけが卒業できる)を得ているが、人前で弾くのが苦手で「聴衆が2人以上いるとミスタッチをはじめる」指をなげいていた(なげくのは別にドビュッシーだけではないと思うが)。とくに細かい動きが苦手で「子供の領分」でもあちこち破綻が起きている。楽譜と違う音が聞こえるのはそのためか、あるいは演奏中に新たなインスピレーションが湧いたのか、今となっては知るよしもない。
同じことがショパンの楽譜についても言える。弟子たちの証言によれば、ショパンはメロディをふちどる細かい装飾を2度と同じようには弾かなかったので、生徒としては、いったいどれを習えばよいのか戸惑ったという。
現在刊行されているエキエル版には、そんないくつかのヴァリエーションが楽譜に書き込まれていて、演奏者が選択できるようになっている。ということは、と私は考える。その部分については、必ずしも楽譜に書かれたとおりではなく、自分でひらめいた装飾を入れてしまってもよいのではないだろうか。
1990年ショパン・コンクール最高位のケヴィン・ケナーと話したら、彼も同じことを考えて、リサイタルで実践したとのこと。同じことをコンクールでやったら、絶対予選落ちしていたね…(笑)
-Information-
東京ステーションギャラリートーク&コンサート赤煉瓦のぬくもりの中で
出演:青柳いづみこ、池辺晋一郎他
2014年11月15日 14:00 東京ステーションギャラリー
問合せ 東京コンサーツ 03-3226-9755