【書評】「音楽と社会 バレンボイム/サイード」(朝日新聞朝刊 2013年7月7日)

音楽家を苛むパラドックス

バレンボイム/サイード「音楽と社会」アラ・グゼリミアン(編)

ピアノ演奏と文筆を兼ねる私は、音楽界ではモノ書きと思われ、出版界ではピアノ弾きと思われ、どちらにも立脚点のないあやうさを抱えながら仕事をしている。

だから、パレスチナ人の文芸評論家サイードの気持ちはよくわかる。「僕のもっとも古い記憶の一つはホームシックの感情、ここではなくて、どこか別のところにいたかったという気持ちだ」と彼は語る。アラブ人キリスト教徒として生まれ、ムスリム色の強いカイロで少年期を過ごしたサイードは、どこにも居場所がなかったのだ。

いっぽう、ロシア系ユダヤ人の指揮者パレンボイムの感覚にも共感をおぼえる。世界各地を演奏旅行する彼にとって、「音楽ができれば、どこでもわが家」なのである。音楽というグローバルな芸術のありようを、これほど端的にあらわすコメントもあるまい。

『パラレルとパラドックス』という原題をもつ本書は、音楽の解釈にかんする議論にとどまらず、音楽を通して社会と人間の諸問題を考えるよすがにもなる。

サイードは、音楽の未来に強い危機感を抱いている。音楽が他の芸術から疎外されている理由は、「音楽は特殊な教育を要求するが、それはたいていの人々にはまったく与えられていない」からだ、と彼は言う。「それでいながら、ニーチェが『悲劇の誕生』で書いたように、音楽は潜在的にもっとも近づきやすい芸術形態なのだ」

言葉を介さず、直接人間の感情に訴えかける音楽が、同時に、謎めいた記号の解読を必要とする点で、もっとも理解されにくい芸術でもあるというパラドックスは、私たち音楽家を苛んでいる。

サイードに比べて楽観的なパレンボイムも、今日の学校教育で音楽が軽視されている点には異議を唱える。「音楽を上手に演奏するためには、頭と、心と、気分のあいだのバランスをとる必要がある。・・・どうしたら人間らしくなれるかを子供たちに示すのに、音楽にまさる方法があるだろうか?」

真のコスモポリタンで、エルサレムでワーグナーを指揮して物議を醸し、アラブ諸国とイスラエルから若い音楽家を招いてミュージック・キャンプを開催するパレンボイムは、音楽の力をどこまでも信じている。たしかに、音楽を通して二つの世界の若者たちは完全にひとつになり、それはすばらしいことだが、だからといって紛争がなくなるわけではない。

音楽は世界共通言語だが、それゆえに私たちは、民族や宗教の違いを否応なしに肌で感じさせられることにもなる。音楽家はもっと行動し、もっと発言すべきだと、本書を読むたびに強く思う。

(中野真紀子訳 みすず書房 2940円)

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