「吊り出された記憶」三木卓(日本経済新聞 2013年7月29日夕刊)

ピアニストの青柳いづみこさんのエッセーを読んでいたら、ドウヴィ・エルリーという名前が突然でてきておどろいた。

ドウヴィ・エルリーは、ヴァイオリニストで、ぼくが学生時代にフランス若手の文化使節として来日、そのコンサートを聞いたことがあったからである。とても高音のきれいな人で、ぼくはきっとこの人は将来一家をなすだろうと思った。

ところが、その後かれのレコードが日本で発売されたとか、話題になったとかいうことに出会っていない。音楽界にうといせいかもしれないが、そのりりしい青年の姿のまま、記憶のすみにとどまっていた。

青柳さんによると、かれはマルセイユの音楽院でヴァイオリンのクラスを持っていて、彼女はそこで伴奏ピアニストをしていたという。ヴァイオリンは伴奏のピアノが必要だ。

そしてその後、ドウヴィ・エルリーはパリ音楽院の教授になった由。かれは成功したのだ。

で、なんとなくほっとしたのだが、そこでぼくは大昔聞いたコンサートは、女子学生のともだちといっしょだったことを思い出した。今彼女は元気だろうか。
 
そしてその時、ぼくはプログラムの途中で会場の日比谷公会堂に遅れていったことも思い出した。ぼくに、彼女はそうとうふくれていたが、なぜそうなったか。それは静岡にいた祖父が胃癌でなくなって葬式をすませて来たからだった。

とすると、それは一九五六年の三月下旬ということになる。そんなことがあったんだ。そんなふうに次々と記憶が吊り出されてくる。

こんなかたちで一生思い出さないで終ったかもしれない人生の一情景。

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