「ショパン-パリの異邦人」寄稿「ショパンにおけるパリ-パトスを包むエレガンス」(文藝別冊 2014年1月刊行)

フレデリック・ショパンは、一八一〇年三月にポーランドのジェラゾヴァ・ヴォラで生まれ、三一年九月末、二十一歳でパリに出てくる。深いかかわりをもったジョルジュ・サンドはじめ、ドラクロワ、バルザック、ハイネ、リスト、ベルリオーズなど多くの芸術家と交流し、四九年十月、三十九歳で亡くなった。

ショパンが作曲をはじめたのは七歳のころだから、音楽人生だけに限っていえば、フランスで過ごした時間のほうが長かったことになる。

しかし、その作品解釈ということになると、圧倒的にポーランドが優勢になる。たとえば、五年に一度しか開かれない、つまりオリンピックより希少なショパン国際ピアノ・コンクールはパリではなくワルシャワで開かれる。一九五五年にアダム・ハラシェヴィチに優勝を譲ったヴラディーミル・アシュケナージの例を見るまでもなく、ある時期までは「ポーランド優位」の印象はぬぐいがたかった。一九八〇年に第二次予選で敗退したイーヴォ・ポゴレリチのように、マズルカやポロネーズなど民族系の作品解釈でポーランドの審査員に好まれなければ入賞もおぼつかないとささやかれる時代も長くつづいた。

ショパンの楽譜は、ポーランドのエキエル版やパデレフスキ版が主流で、フランスのコルトー版やドビュッシー版は参考程度に使われるにすぎない。

実際のところショパンは、半生をフランスで過ごしただけではなく、彼自身にも半分はフランスの血が流れているのである。

ショパンの父ミコワイは、ロワール地方に生まれ、十六歳でワルシャワに移住したフランス人である。ポーランド貴族にフランス語を教えることで生計をたて、屋敷につとめていた没落ポーランド貴族の娘と結婚している。長男フレデリックが誕生した年、ミコワイはワルシャワに新設された高校でフランス文学とフランス語教師の職を得た。

フレデリックがポーランドの民族音楽に目覚めたきっかけは、母が歌う子守歌だったという。幼いころから才能を発揮したフレデリックは、ラジヴィウ公はじめ貴族のサロンに招かれて演奏し、即興や自作のピアノ曲を披露している。聴き手の趣味を即座に見抜く感性、リストが賛嘆した王侯のように上品なものごし」はこのとき培われたのだろう。

一八二四年の夏休み、ワルシャワ北西百五十キロのシャファルニャで過ごしたフレデリックは、何世代も歌いつがれてきた伝統的な民衆音楽に出会い、熱心に採譜した。作曲の師エルスネルはドイツ入だったが、厳格な書法で少年の才能をしばるかわりに、ポーランドの民族音楽にもとづく自由な即興を大いに奨励した。

昨年、ワルシャワ時代のショパンの書簡集がボーランド語から初めて邦訳された。従来の書簡は英語からの重訳だったため、書き手の生の言葉が伝わらないうらみがあったが、改訳を読むと、優雅で繊細なピアノの詩人というショパン象はかなりくつがえされる。

ワルシャワ時代のショパンはいたずら好きで好奇心旺盛活発な少年で、馬に乗って野山をかけめぐり、家族や友人たちに宛てて平気で卑狸な冗談もとばしている。

ティーンエイジャーのショパンは、アマチュアの劇団に所属する役者の卵でもあった。パントマイムにも秀で、洋裁師に扮して見えない裁ち鋏で布を切る仕種にはプロの俳優も舌を巻いたと伝えられる。物真似やカリカチュアの名人で、いろいろな人物の身振りや口ぶりを形態模写するときは顔だちまで変わって別人のように見えたという。リストが「貴族のご落胤のよう」と評したパリ時代のショパン像は、もしかするとかなり計算された彼なりの見せ方だった可能性もある。退路を絶たれたショパンは、とにかくこの花の都で生きていかなければならなかったのだから。

どちらかといえばウィーンでキャリアを築くことを望んでいたショパンがパリに定住することになったのは、よく知られているようにワルシャワ動乱(ショパン側からみればワルシャワ蜂起になる)がきっかけだった。

一八三一年五月一日、ショパンがパリに出てくる四ヵ月ほど前、ドイツ抒情派の詩人、ハインリヒ.ハイネがライン河を渡っている。ユダヤ人のハイネは七月革命の余波で故国にいづらくなったため、亡命を決意した。サン=ドニから凱旋門をくぐったハイネは、早速めかし込んだ入々の群れに驚いている。

「彼らはみなモード雑誌の絵のようにたいそう趣味のよい服装をしていた。次に感銘を覚えたのは、彼らがみなフランス語を話していることであった。これはドイツでは上流階級の印であったから、ここでは、国民全体がドイツの貴族と同じくらい高貴だということになる」(『告白』高池久隆訳)

フランス人なのだからフランス語を話すのは当たり前なのだが、人々の礼儀作法、フランスふうの「みやび」は、「祖国ドイツの武骨さへの恐れからすっかり縮みあがってしまっていた」ハイネの心をやわらげた。シユトゥットガルト経由でパリ入りしたショパンは、ハイネのような気後れを感じることもなく、すんなりとパリの街に同化した。モンマルトルからパンテオンまでを見渡すポワソニエール大通りの瀟洒なアパルトマンに居を定めた彼は、友人にこんな手紙を書く。

「いろんなことを発見できて、愉快になっている。世界第一の音楽家がおり、オペラがある。ロッシー二、ケルビーニ、パエルなどに会った。それで、きっと思ったより長くいることになりそうだ。ぼくにとって好都合な環境だからというのではない。だんだんと好転するだろうと思うからだ」(十一月十八日・小松雄一郎訳、以下同)

宮廷指揮者のパエルの紹介で、当代一のピアノ教師、カルクブレンナーに自作の《ピアノ協奏曲第一番》を聴いてもらう機会を得た。一聴して魅せられたカルクブレンナーだが、協奏曲の総譜を見て、オーケストラ書法の不備を指摘する。演奏家としても、出来ばえにむらがあり、技巧的に完全ではないショパンがパリのピアノ界で確固たる地位を占めるために「三年間自分のところで修行するように」と提案する。

ショパンが故郷の両親に相談すると、猛烈に反対される。ワルシャワでの師エルスネルは、「それはカルクブレンナーの嫉妬だ」と切って捨てる。

「おれはフレデリックを知っている。彼はよい奴だ。そして全くうぬぼれがなくて、自分を前に押し出そうとしない奴だ。すぐに他人の意見に影響される」

しかし、カルクブレンナーの言うことにも一理ある。ショパンは書く。

「丹念にぼくの演奏を観察していうには、ぼくには何『流』という流派がないこと、いまはすばらしくいっているが、悪く曲がらないとも限らないとのことだった。さらに、彼が死んでしまうか、隠退してしまったあとには、ピアノ演奏の大きな流派の代表者というものはなくなってしまうだろうともいいました。彼はたとえぼくがやろうとしても、古い流派を習得しなくては、新しい流派をおこすことはできないといいました」

いちいち正論なのである。ショパンのピアニズムはワルシャワ時代にすでに確立されていたが、あまりに革新的で従来の技法とは大きな断絶があった。ショパンが伝統をふまえた上で新しい「流派」をつくらなかったため、その真髄は長く専門の教育機関に伝わらなかった。そのことがフランスの、ひいては世界のピアノ界にひずみを与えていくのだ。

教師合戦はひとまずワルシャワ側の勝利に終わったが、カルクブレンナーがショパンの才能に嫉妬していたわけではなかったことは、弟子入りを断ったピアニスト・作曲家をパリ楽壇に紹介するために尽力し、大がかりな演奏会を企画したことからもわかる。

「ワルシャワから来たフレデリック・ショパン氏による大演奏会」は、何度か延期されたのち、一八三二年二月二十六日にプレイエルの小ホールで開かれた。ショパンは自作の協奏曲や《ドン・ジョヴァンニの主題による変奏曲》を演奏し、カルクブレンナーは四台の伴奏ピアノと二台のソロによる自作の《序奏と行進曲つき大ポロネーズ》でショパンと共演した。亡命ポーランド貴族が喝采を送り、メンデルスゾーンやリストも来場し、音楽雑誌にも好評が載ったが、入りは三分の一程度で収入は少なかった。

同年四月、パリで演奏活動をしたいと情報を求めてきた故郷の友人に、相当な蓄えがなければやっていけない、パリで弟子をとることはたいへんむずかしいし、演奏会を開くのはなおさらだ、コレラが蔓延している上に政治情勢が悪い、と返事を書いている。

五月には、パリ音楽院ホールの慈善演奏会に出演し、《協奏曲第一番》をオーケストラをバックに演奏したが、ピアノの音量が小さくてよく聞こえず、管弦楽書法も不十分だと批判された(ショパンがオーケストラをうまく扱えなかったのは衆目の一致するところで、現在でも彼の協奏曲を伴奏するオーケストラは退屈そうにしている)。ショパンは次第に、自分はロッシー二のようなオペラ作曲家としても、リストのようなコンサート・ピアニストとしてもやっていけないことを悟るようになる。

そんなとき、ショパンに救いの手をさしのべたのが大富豪のロスチャイルド家だった。ドイツ系ユダヤ人の銀行家一族で、五人の息子がそれぞれドイツ、オーストリア、イギリス、イタリア、フランスで事業を展開し、一八二二年にはハプスブルク家より男爵の称号が授けられている。パリに亡命していたラジヴィウ公の誘いでロスチャイルド男爵のサロンで演奏したショパンは、男爵夫人から弟子入りを志願された。噂はまたたく間に社交界に広まり、多くの上流階級の貴婦人たちがショパンの個人レッスンを受けることになった。

亡命ポーランド人たちがレッスン料をかなり高額に設定したこともあって、ショパンはカルクブレンナーより五フラン安いだけの二十フランというレッスン料を、ロスチャイルド男爵夫人をはじめ、ノアイユ侯爵令嬢、ヴォーディン公爵夫人、国王の側近のド・ペルチュイ伯爵、エステルハージ伯爵など貴族階級の生徒たちから得るようになった。

一八三三年一月には、ベルリンの友人に宛ててこんな勝利宣言が書かれている。

「ぼくは最高の社交界に出入りしています。大使、公爵、大臣たちの間に坐っている。ぼくは自分を特に売り込むようなことはしなかったのにどんな不思議なことがあったのか、自分ではわからない。(中略)今日は五人レッスンをした。君はぼくは金持になると思うかも知れぬが、ほろ馬車と白手袋の費用は収入以上にかかるのだ。しかも、これがないと上流社会にははいれないのだ」

この年、ショパンは自分を支える新興ブルジョワが多く住むショセ・ダンタン街五番地の高級アパルトマンに引っ越し、二輪馬車を借り、御者と召使を置いた。

ショパンがこのように「成り上がる」ことができた背景には、フランス社会の特殊事情があると河合貞子は『ショパンとパリ』(春秋社)で分析している。

一七八九年の大革命以来、革命に次ぐ革命を経て七月革命では中産階級が勝利を占めたが、文化的な優位はいまだに貴族階級が握っていた。富を得れば誰でもショパンのようにショセ・ダンタン街に住むことができたが、プルーストの小説の舞台になるようなフォーブル・サンジェルマン界隈には近づくことができず、一種の憧れとなっていた。「その”憧れ”に近づく手段の一つは、貴族と同席できるオペラ座、またはコンセルヴァトワール音楽協会の会員になることでした。しかし、オペラ座の仕切られたボックス席ロージュは、代々貴族の世襲制が強固であり、容易に交われる場ではありません。それに比べて、パリではそれほど伝統のないクラシックやポピュラーの音楽会では同じ平土間に同席することで自由に行き来ができます。以前なら顔を見ることさえできなかった『公爵や伯爵と同席すること』は、ことのほか大きな意味をもっていました」

こうしたことが可能になったこと自体、まさに「パリ的」なのだと河合は書く。ロンドンやウィーンでは「音楽はまだ貴族の掌中にあった」が、度重なる革命で貴族による音楽活動が停滞していたパリでは、中産階級が貴族のようなサロンを開くなかで、「文化面の社会的進出を果たして」行ったという。

サロンには必ずグランド・ピアノが置かれ、巧みに楽器を操るヴィルトゥオーソが大いにもてはやされる。ショパンやリストのような卓越したピアニストはフォーブル・サンジェルマン界隈のサロンにも招かれたため、一八四〇年代にはいると彼らのコンサートに貴族たちも顔を出すようになり、かつてはありえなかった二つの階級の顔合わせが実現した。

こうした状況は、ショパンにとっても好都合だった。前に書いたとおり、彼は公開演奏会のような場では大音響が出ないため、思ったほどの成果があげられなかった。彼の演奏の美点である微細なニュアンスの変化、軽やかなタッチの妙は、洗練された趣味をもつ人々が集う社交の場でこそ効力を発揮した。ショパンはまた、自分のことを知らない人々の前で演奏するとひどい気後れにおそわれて真価を発揮できなかったらしい。その意味でも、サロンの親密な空間がもっともショパンにふさわしい演奏の場だったといえよう。

パリに滞在していた十八年の間、ショパンがホールと名のつく場で演奏したのは数えるほどしかない。いっぽう、一日五人の生徒が置いていくレッスン代の合計は、もっともさかんなときでオペラ・コミーク座の楽長職より四千フランも多く、教授職の四倍、一般的な労働者の二十倍にも達したという。

公開の場で演奏せず、もっぱら上流階級の子弟に稽古をつけるショパンのパリでのライフスタイルは、結果として彼の革新的なピアニズムの伝搬を著しく遅らせた。

ショパンは、チェルニーやリストらが各指を均等に動かすために厳しい訓練を課すことに疑問を呈し、五本の指は長さもつき方も違うのだから、それぞれにふさわしい使い方をすべきだと主張した。彼が編み出したシステムは、人差し指、中指、薬指の三本を黒鍵に置き、短い指を白鍵に落とすという画期的なものだった(モスクワ音楽院でギレリスやリヒテルを育てたゲンリヒ・ネイガウスは、このシステムを「コロンブスの卵」と呼んだ)。同じ考え方に従ってショパンは、すべての指が同一平面上にのるハ長調の音階(一般的にはもっとも平易とされる)は「もっともむずかしい」から最後に練習するように、黒鍵を多く使った音階のほうが平易であるから先に練習するようにと弟子たちに指導した。彼のピアノ曲にシャープやフラットのたくさんついた曲が多いのはこうした理由による。

ショパンの手は同世代のヴィルトゥオーソに比べて小さく、指も細かったが、並外れた柔軟性に恵まれていた。彼のピアニズムは、そうした手の特性をふまえ、指そのものの筋力に頼らず、重さを支える支点を無理なく移動させることによって少ない力で大きな効果をあげるように工夫したものである。

ショパンは自分の指導をまとめた教本の執筆を考えていたが果たせず、エッセンスを記した草稿が姉のルドヴィカに託され、次いでショパンに師事した元革命政府首相夫人に寄贈された。夫人の死後はポーランドのピアニストに遺贈され、そのピアニストの死後競売にかけられ、落札したのがフランスのピアニスト、アルフレッド・コルトーである。このとき一九三六年。ショパンがパリに出てきてから一世紀がたっていた。

冒頭で記したようにショパンのエディションはポーランドのものが主流だし、ショパンを研究したい学生はワルシャワ音楽院への留学を希望する。ショパンを演奏する上で、ポーランド人の精神構造や民族音楽への理解が必要なことはもちろんだが、フランス的洗練がショパン作品を読み解く上で重要なファクターであることもまた否定できまい。

ショパンの主要作品の多くはパリ時代にはいってから書かれている。ワルシャワ時代との大きな違いは、作品の規模だろう。ウィーンでの成功を夢見ていたころは、協奏曲をはじめオーケストラをともなう大規模な作品を五曲も書いている。パリに到着してからもしばらくは新しい協奏曲を構想していたようだが、やがて断念(一説には《演奏会用アレグロ》がその名残)し、より規模の小さなキャラクターピースを作曲するようになった。

それは、ショパンが公開演奏会で多くの聴衆を感動させる「ヴィルトゥオーソ」から、よい趣味をもつサロンの選良向けのピアニストへと方向転換した証である。とりわけノクターンは、ささやきかけるようなメロディに沿って精緻な和声づけがされ、サロンで演奏する上での大きな武器になったに違いない。ワルツもまた、ウィーンで流行していたような「踊るためのワルツ」ではなく、優雅で洗練された芸術作品として昇華されている。七歳のときから書いているポロネーズをはじめ、ワルシャワ時代の習作は総じてくり返しが多く饒舌な印象があるが、パリに移り住んでからはより凝縮された簡素な表現を心がけるようになった。この変化はかなり劇的で、気品を重んじるパリの影響がみてとれる。

フランス的洗練が理想的な形であらわれているのが《二十四の前奏曲》だろう。個々の楽曲は演奏時間一分程度、長くても五分ほどだが、コンパクトな中にさまざまな意匠がほどこされている。たったひとつの音、たったひとつの転調で景色が変わってしまうほどの密度の濃さである。例外はマズルカで、生涯にわたって書かれ、折々の心象風景をもっとも反映させていると言われる。唐突な転調、大胆な律動、極端な気分の変化。ときに荒ぶる表現あり、ときに詠嘆調に、虚無的になり、亡命ポーランド人ショパンの本音をかいま見るようである。

ある日本人ピアニストから、ポーランド人の先生に習うのと、フランスの先生に習うのとではマズルカのリズム感が全く違うという話をきいたことがある。民衆舞踊の土俗性か、フランス的洗練か……。どちらに傾きすぎても、おそらく違ったことになるのだろう。

ショパンの音楽に内在する激しいパトスとそれをオブラートのように包むエレガンス。求められるものを敏感に察知したショパンの擬態も含めて、「ショパンにおけるパリ」はいまなお考察の余地をひろく残している。

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