青春18ディスク 私がオトナになるまでのレコード史・後篇(レコード芸術 2020年2月号)

ききて・文=飯田有抄

“楽譜に書いてある通りに弾く”ことばかり習ってきた私にとって、古い楽譜は書かれている情報が少なく、自由に装飾をつけて弾いていいなんて衝撃でした

挫折の連続と矢代秋雄との出会い

ピアニストであり文筆家でもある。情念豊かでありながら学究的でもある。文学と芸術の香りに満ちた家系に育った青柳いづみこを、人は神から二物も三物も与えられた才女と見るだろう。しかし青柳自身は「もう挫折の連続です」と、自身の学生時代を振り返る。

「藝大に入ると、大学紛争の時代でしたから、1年生の頃はほとんど授業を受けられなかった。2年生でフランス留学給費制度の試験を受ける予定でいたのが、その年にひどい風邪をひいてしまった。感情移入せず完璧な演奏を求めた当時のピアノ教育に対する反発や、ピアノでうまく歌えないことへの欲求不満も相まって、私は大声で歌いながらピアノを弾くようになっていました。そうしたら、声帯麻痺を起こしてしまいました。左の声帯がまったく動かない。音声学の先生からは、注射を打っても効かないし、これはもう休んで、徐々に機能を回復するしかないと言われて。私は歌が大好きで、高校時代にいっときは声楽家への道も考えたくらいでしたから、辛かったですね」

そんな時期に出会ったのが、作曲家の矢代秋雄だった。「大学2年で、矢代先生の楽曲分析の授業を受けたのが最初。バッハの平均律を取り上げて、これはカンタータ、これはコンチェルトグロッソ、これは独奏器楽曲、などとジャンル分けした分析に目から鱗でしたね。3年生では作曲科の授業に潜ってスコア・リーディング。先生の授業は厳しかったから、作曲の学生はみんな逃げちゃって、ほぼ先生と私のマンツーマン(笑)。矢代先生はピアノもお上手でしたから、オーケストラ譜をピアノで弾く方法を教えてくださり、シューベルトの《未完成》やブラームスの4番の交響曲などで、ホルンの音はこう、弦楽器群の音はこう、と音色の作り方を徹底的に仕込んでくれました」

藝大ピアノ科は声楽が必修で、単位を取らなければ卒業できない。声帯麻痺を起こしていた青柳を救ったのは、声楽家の瀬山詠子だった。
「4年生の時に、副科声楽の担任が瀬山先生になりました。私の話を親身になって聴いてくれて、『痛めた声帯に一番いいのは、正しい発声をすること。試験では簡単な曲をひとつ歌えばいいわ。ただし、せっかく私のところにきたのだから、声楽の“イロハ”を学んでいってちょうだい』と仰っていただき、立ち方から呼吸の仕方など、まさに“イロハ”から教えていただきました」

卒業の日が近づいた。「(日本に)残っているダメなやつ」という気持ちのまま、矢代の特訓のもと修士課程を受験し、大学院へ。時は前衛音楽最盛期を迎えていた。
「学生の間でも圧倒的に無調派が多く、ひと世代前の和声的な作曲家を『古い』と断じる若手作曲家も多かった。私は初見が利いたから、新作の演奏を頼まれることもありましたね。NHKで劇伴の収録をする仕事などが先輩からまわってくるのです。下宿先のアパートでは、現代作品を手がける高橋アキさんの活動が話題になることも多く、私もよくコンサートに出かけました」

修士課程を終え、青柳は1975年から79年にかけてフランス国立マルセイユ音楽院へと留学する。まだ古楽ブームが起こる前、パリでチェンバロを学んでいた友人宅で、バロック以前の楽譜を見せられ驚いた。
「“楽譜に書いてある通りに弾く”ことばかり習ってきた私にとって、古い楽譜は書かれている情報が少なく、自由に装飾をつけて弾いていいなんて衝撃でした。ダングルベールやルイ・クープランのクラヴサン曲に魅せられましたね」

現在の活動につながる私家版エッセイ集作成

一方で、ベルクの《ルル》補筆版の初演もガルニエ宮の天井桟敷で聴くなど、最新の音楽にも触れながら刺激的な留学時代を送った。そして帰国後間もなく、1980年にイイノ・ホールでデビュー・リサイタルを行なう。それまでに書き溜めていたエッセイを冊子にまとめプログラムに挟み込んだことは、現在の執筆活動にもつながっている。

「評論家の横溝亮一先生が、文章も褒めてくださったのは嬉しかったですね。その頃愛聴していたのが、ドビュッシーの《ビリティスの3つの歌》の入ったアルバムです。ドビュッシーの親友ピエール・ルイスによる詩に基づく《ビリティスの3つの歌》は中学時代から大好きで、彼らと縁の深いアンドレ・ジッドやポール・ヴァレリーらのことも、私はずっと“お兄ちゃんたち”のように思っていました」

ドビュッシー研究を本格的に進めようと、83年に藝大の博士課程に。また同じ時期に結婚。
「夫は皆川達夫さんのラジオの大ファンで、ギョーム・ド・マショーやジェズアルドなど、古い時代の音楽情報をいっぱい仕入れていたのです。私はジェズアルドなど聴いたことがなく、不協和な響きに新しさを感じました」

青柳が18枚目に選んだのは、ドビュッシー未完のオペラ《アッシャー家の崩壊》だ。
「博士課程の研究テーマにした作品です。ドビュッシーが『印象主義の作曲家』として扱われることに私はずっと違和感がありました。正反対の性質をもったこのオペラをぶつけることで、研究を進めていきたいと考えたのです」

論文を仕上げる間に長女を出産。2歳半になったとき、夫の家族に娘を預け、パリの図書館に7ヶ月間こもって貴重資料にあたり研究した。89年に博士論文を書き上げた青柳。演奏と執筆の両輪によるキャリアを重ねていくことになるのだった。

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