コミカルな6人組(東京・春・音楽祭2020 公式プログラム)

 フランス6人組と言ったら人は何を思い浮かべるだろう。軽妙洒脱、おしゃれ、コミカル、「現代音楽」に比べてわかりやすい・・・・・・。
 何となくまとまったイメージがあるものの、実は6人の作風はバラバラで、共同制作したのは1920年のピァノ小品集《6人組のアルバム》だけだった。翌年のバレエ音楽《エッフェル塔の花嫁花婿》では、ルイ・デュレが脱退したため5人による共作になった。
 1920年1月16日付けの『コメディア』誌でアンジ・コレによって命名された「フランス6人組」は、もっとも年長のデュレが1888年生まれ、もっとも若いプーランクとオージックが11歳下の1899年生まれ。オネゲルとミヨーをタイユフェールは1892年生まれで、同時期にパリ音楽院に学んでいる。
 オネゲルやタイユフェールは、音楽院で出会ったミヨーの自宅でストラヴィンスキーやリヒャルト・シュトラウスなど新しい音楽を研究した。両親にパリ音楽院入りを反対されたプーランクは、ピアノの先生の仲立ちでオーリックと知ら合い、歌手のジャーヌ・バトリのサロンでオネゲル、デュレ、タイユフェールに出会う。
 こんな風にそれぞれ顔見知りになった若い音楽家たちが結束するきっかけは1917年5月に初演されたサティの《バラード》。コクトーの台本、ピカソが衣装と舞台装置を担当し、ナティの音楽はサイレンやタイプライター、ピストルの音など騒音や現実音を使うなどして大スキャンダルを巻き起こしたが、未来の6人組の面々は夢中になった。
 オーリックとデュレ、オネゲルはモンパルナスの「ユイガンス音楽堂」でサティを讃えるコンサートを開く。《バラード》に魅せられたプーランクはピアノの先生にせがんでサティに紹介してもらう。《野外の遊び》とい5作品でサティに気に入られたタイユフェールも、のちにサティが命名する「新青年」の仲間だった。
 1917年12月、自宅のサロンに若い音楽家たちを集めていたジャーヌ・バトリがパリの芝居小屋ヴィユ・コロンビエ座の臨時音楽監督に就任し、6人全員の作品を集めたコンサートを開く。
 この演奏会で鮮烈なデビューを飾ったのがプーランクだった。《黒人狂詩曲》は、「リベリア出身のマココ・カングルー」が書いたとされる偽マダガスカル語のパスティーシュ詩集による室内オーケストラ作品で、声楽部分には、まったく意味のない言葉が並んでいる。
 出演を予定していた歌手があまりのおふざけに怒って降りてしまったため、急遽プ一ランクが歌のパートを歌ったというエピソードも、「6人組」の「コミカル路線」を象徴している。

2020年3月17日 の記事一覧>>

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