演奏家になりたいと思ったことはなかった、ように思う。もともと手が小さかったし、弾けない曲も多い。ピアノも選り好みする。音量もあまり出ないから、オーケストラとの共演には向かない。競争も嫌いで、コンクールではいつもお先にどうぞ、という感じになる。もちろん美人でもビジュアル系でもない。
でも、自分が自分のようであることは良いことだ、と思えるようなシチュエーションに身を置きたいと常に願ってきた。そんな私が2020年1月11日に演奏活動40周年を迎えるのは、なかなか感慨深いものがある。
デビュー・リサイタルはきっちり40年前の1980年1年11日。フランス留学から帰国したばかりだった。場所は響かないので有名な霞ヶ関のイイノホール。モーツアルト『デュポールの主題による変奏曲』で始め、ベートーヴェンの『熱情ソナタ』で前半終わり。休憩後はドビュッシー『映像第2集』と三善晃『ピアノ・ソナタ』。当時は、無印のピアノ弾きはデビュー・リサイタル即引退興行で永久就職、今風に言うと婚活に入るのが普通の流れだった。なのでそのつもりだったのだが、何の間違いかそのリサイタルが大新聞の批評欄で褒められて、やめるにやめられなくなった。
ボツボツ公演の依頼も入ってきたが、やっぱり自分には普通の演奏形態は向かないと思ったのが3年後の1983年。藝大に創設されて間もない博士課程に入り直し、ドビュッシーの研究を始めた。その間に「永久就職」にも成功して子どもが生まれたり、裏表きっちりやって博士号をいただいたのが1989年。ドビュッシーとその時代をテーマにシリーズ・コンサートを開始し、やっと自分らしい活動形態にたどり着いた、と思った。
博士課程に入ったのは学者になるためではなく、本を書くのが目的だったが、1990年代前半はなかなか売り込みがうまくいかなかった。本の目次案を携えて出版界の集まりなどに顔を出すものの、へえ、ピアニストさんなんですか、ステキですねえ……で終わってしまう。
1997年にようやく博士論文をリライトしたドビュッシーの評伝『想念のエクトプラズム』が出て、これで本当に演奏家を引退できると思い、紀尾井ホールを借りて「最後のつもり」のリサイタルを開いたところ、またまた大新聞に。今度は酷評され、やめるにやめられなくなった。
その評者は、私のドビュッシーの評伝を槍玉に上げていた。ドビュッシーと19世紀末のデカダン文化について論じているが、演奏には少しもそういうところは見えなかった、このピアニストは、自らの演奏をもって自らの論理を裏切ったのである、と書かれている。しかし、これは完全に誤読だ。私の本を最後まで読めば、ドビュッシー自身がグロテスクの美は音楽には似合わないと感じ、そうした方面のものはことごとく計画倒れに終わっていることがわかるはずだ。
爾来22年。本は29冊目を出したところだし、CDは2020年1月に17枚目をリリースする。演奏家になりたいと思ったことはないし、今も演奏家らしい活動はほとんどしていないが、演奏する努力はつづけている。
一つは音色。楽器とのコンタクトを工夫して、それ自身が物語るような音を出すこと。もう一つはレベルの弾きわけ。それぞれにふさわしいタッチを工夫して、テクスチュアをくっきりと浮かび上がらせること。最近、割合にうまく行くようになった。最終的な目標は、たった一音でも人を泣かせるような音を出すこと。これは、うまく行ったり行かなかったり。
2018年にドビュッシー没後100年記念で一連のコンサートを成功させたので、しばらくはポスト・ドビュッシーとその周辺に向かう。
2020年1月11日の40周年記念コンサートは昼夜2段仕立て。昼公演はリサイタルで、物語がテーマ。サティ『コ・クオの少年時代』は親子関係がテーマ。クープラン『昔の吟遊詩人たちの年代記』は王侯貴族と雇われ楽士たちの戦い、やはりクープランの『ドミノまたはフランスのフォリア』は女の一生。さながら自分自身の40年の物語にも重なる。イベールの組曲『物語』は、中近東を旅した時の思い出が蘇る。ラヴェル『高雅で感傷的なワルツ』は、作曲者自身が台本を書いてバレエ音楽に姿を変えた。
夜の部は作曲家・ピアニスト高橋悠治さんのご協力を得て「6人組誕生!」。CDアルバムの曲目を中心にプーランクやオーリック、タイユフェールらの連弾曲。ジトジトジメジメしたドビュッシーの音楽とは対照的にあっけらかんとした明るさと、そこはかとない哀愁が魅力。後半はミヨー『ボヴァリー夫人のアルバム』。ジャン・ルノワール監督の、評判の悪かった映画の音楽をミヨーが手掛けている。奥さんのマドレーヌが再構成し、フローベールのテキストをつけて音楽物語に仕立てた。今回は高橋さんにピアノを弾いていただき、私が朗読する。日本語の翻訳も私がするつもり。最後はミヨーのバレエ音楽『屋根の上の牡牛』のピアノ連弾版。ミヨーがブラジル大使を拝命したクローデルのお供でブラジルに滞在したとき採集した民族音楽をベースにしたスリリングな作品だ。
演奏家になろうと思ったことはないし,今でも年間100回演奏するような存在にはほど遠いけれど、常に青柳いづみこ自身ではありたいと願っている。