「東京探Q 文豪なぜ杉並に集う?」(読売新聞都内版2020年1月20日)

井伏鱒二、太宰治、与謝野晶子−杉並区のJR中央線沿いは、日本の文壇にその名を残す作家や歌人らが居を構えたエリアだった。文豪はなぜ杉並に集まったのか。(鍛冶明日翔)

井伏慕い移住文士村に

〈自然の匂ひゆたかなり〉。与謝野晶子が作詞した区立桃井第二小学校の校歌に、そんな一節がある。同小は荻窪駅の南にあり、与謝野も近くに住んでいた。善福寺川が流れるほか、与謝野の住居跡地には「与謝野公園」が整備され、植栽も豊富で落ち着いた印象だ。

区立郷土博物館などによると、関東大震災(1923年)後、中央線の複々線化で急行の運転が始まり、区に移り住む人が増え、作家な次々と区内にやって来た。「杉並の自然豊かな環境を好んだのだろう」。同館の今田雄代(かつよ)学芸員はそう推し量る。

27年に荻窪に住み始めた井伏の存在は強い求心力どなった。井伏を慕い、太宰ら多くの若手作家が移住。井伏は阿佐ヶ谷駅前にあった中華料理店「ピノチオ」で、太宰や小説家・外村繁、仏文学者・青柳瑞穂らと将棋を楽しみ、酒を酌み交わした。こうした交流文化は戦後も継承され、やがて「阿佐ヶ谷文士村」と呼ばれるようになった。

自由な気風 家賃も魅力

〈昼間にドテラを着て歩いていても、近所の者が後指を差すようなことはないと言う者がいた〉。井伏は随筆「荻窪風土記」に、当時の杉並の「空気」をそうつづっている。

談論風発を好む自由な気風は今も残る。高円寺駅近くの古書店兼飲食店「コクテイル書房」では14日、本好きや作家志望が集い、文学論などに花を咲かせていた。

常連客の団体職員、関沢哲郎さん(39)は20代の頃に作家を目指して新人賞にも応募したが、仕事との両立が難しく、一時は断念した。だが結婚を機に区内に住み、ミュージシャンや画家、役者を目指す人たちと志を語り合い、刺激を受けて執筆活動を再開。昨年11月には初めての小説同人誌「ハムキャベツ」を出版した。

「この街では個人が尊重され、落ち着ける」と話す関沢さん。店主の狩野俊さん(47)は「昔の文士たちにとって、この地はフロンティア(未開拓地)で、新しい時代を作ろうという気概があった。それは今にも通じる」と語る。

もっとも、「現実的な」側面もあったようだ。
不動産情報サイトによると、現在の区内の家賃相場はワンルームで6万8000円。隣の中野区や世田谷区などと比べて安く、地方出身の大学生が住みやすい場所として知られる。井伏や太宰らが活躍していた時も家賃は安かったとされる。

「当時はみんな貧乏だった。大家も厳しくなくて、家賃を踏み倒しやすかったみたい」。青柳の孫で、阿佐ヶ谷で生まれ育ったピアニスト・文筆家の青柳いづみこさん(69)=写真=が、そんな話をしてくれた。

「作家の奥さんの中には、着物を質に入れ、寝間着姿で街を歩いていた人もいたそうよ」。祖父の青柳は骨董(こっとう)品収集が趣味で、祖母もお金がなくなると着物を質に入れていたという。いづみこさんは笑いながら語り、昔に思いをはせていた。

写真上)古書が所狭しと並ぶコクテイル書房。店主の狩野さん(右)の料理も楽しめる(14日、杉並区高円寺北で)

写真下)与謝野晶子の校歌作詞を記念して寄贈された石碑(杉並区荻窪の区立桃井第二小学校で)

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