【連載】「このごろ通信 スイートスポット」(毎日新聞 2019年7月1日付夕刊)

 直木賞を受賞した恩田陸の『蜜蜂と遠雷』に印象的なシーンがある。養蜂家の息子で自宅にピアノを持っていない風間塵が権威ある国際コンクールに出場する。リハーサルに臨んだ塵は、ステージにぺたりと座って床に耳をつけ、楽器係に頼んで、ピアノやオーケストラのいろいろな楽器を動かしはじめる。
 床は一見平らだが、修理したあとは裏から合板を貼るなどして密度が変わり、奏者や楽器に微妙な影響を与える。飛び抜けて敏感な耳を持つ塵は、楽器が一番よく鳴るスイートスポットを探っていたのだ。
 私はそれと同じようなシーンを6月15日、堺市に新しくオープンする音楽ホール「フェニーチェ堺」で目撃した。
 演奏するのは、2018年にポーランドの首都ワルシャワで開催された第1回ピリオド楽器(作曲家が生きていた時代のピアノのためのショパン国際コンクールで優勝したトマシュ・リッテル。ショパンが愛した仏「プレイエル」社製の楽器でリハーサルしていたのだが、何だか弾きにくそう。何度も同じ箇所を繰り返し練習している。その音は、ワルシャワで私たちに涙を流させた彼のサウンドではない。何かが違う。
 楽器を修復した山本宣夫さんに細かい指示を出したリッテルは、最後にピアノを1メートル前に出すように言いおいてステージを離れた。
 立ち会っていた私は心配した。マイクを通さないピアノの位置は、客席への響きや弾き手の感覚に大きく影響する。ほんの数センチ移動させただけでも音が変わってしまうのに、今からそんなことをして大丈夫なのか?
 コンサートの冒頭、典雅な響きがホールを満たした瞬間、私は、リッテルの勘が正しかったことを確信した。耳元でささやきかけるようなメロディー、聰く者をワクワクさせるような躍動感。彼は間違いなく、自分のサウンドを生み出すスイートスポットを探し当てた。
 リッテルの指が紡ぎ出す「ピアノの詩人ショパン」の響きに魅了されたひとときだった。

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