【連載】「このごろ通信 望月遊馬の詩の調べ 」(毎日新聞 2019年9月2日付夕刊)

 詩人の望月遊馬(もちづきゆま)をご存知だろうか。2006年に18歳で現代詩手帖賞を受賞した若手だ。
 私も少し前までは知らなかったのだが、つい先ごろ上梓(じょうし)した第4詩集「もうあの森へはいかない」を送っていただいた。
 私は、詩は大変苦手である。境地がすっと入ってくるのは3篇のみ。ポール・ヴァレリー著「魅惑」の中の「帯」は、「さにづらふ夕べの空の」という出だしと、「在らず、在り…われただ独り」という結尾に惹(ひ)かれた。シュールレアリスムの詩人モルゲンシュテルン著「月羊」は、メールのアカウントに使っている。フランス文学者だった亡祖父青柳瑞穂の訳詩では、ロートレアモン著「マルドロールの歌」の「自分に似ている人」にいたく共感したものだ。
 しかし、それ以外の大半の詩は、一応読んではみるのだが、言葉が、頭にも気持ちにも入らないまま滑り落ちてしまう。
 かように了見の狭い私だが、「もうあの森へはいかない」は、理解する前に好きになっていた。というのは、望月遊馬の詩もまた、椙当難解だからだ。
 例えばこんな詩句。「開閉門からあふれる河はしずかにピアニカの管をふさいで君の靴紐(くつひも)を投げた」。河が管をふさぐまでは何とか追えるが、なぜそこで靴紐が出てくるのだろう。
 あるいは、「パパとママの入ったジャムをトーストに塗る朝だ」。パパとママもジャムも普通の言葉だが組み合わせが変。昔、言葉を書いたカードを混ぜて並べ換えるゲームをしたことがあるが、それみたいだ。
 でも、この詩集がゲームと違うのは、一見脈絡がないように見える言葉たちが自然な流れをかたち作っていることだ。試しに朗読してみると、すべてが何のきしみもなく連なっていく。
 望月遊馬は音楽が好きで、趣味でピアノも弾くという。言葉を音符のように出しいれしながら作曲する感覚なのだろうか。
 言葉のリズムやイントネーションで音楽に近づこうとする人、音楽に霊感を得て詩を書く人はいるだろうが、詩そのものが音楽になる稀なケースとみた。

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