たった三音で作られた壮大な楽曲
ベートーヴェンの「熱情ソナタ」は、回文みたいだと思っている。
ソナタは、男性的な性格の第一主題と女性的な第二主題から成っている。
「熱情ソナタ」の第一楽章は「ドーラ♭ファー」という第一主題で始まる。第二主題は「ラードファー」。なんのことはない、ひっくり返しただけなのである。ひっくり返しただけなのにまったく性格の違う音楽に聞かせてしまうところがすごい。
第一主題はユニッソンといって、左手と右手が同じ音を弾く。悲劇的なトーンだし、下降形で逃げ場がないので緊張感みなぎる。第二主題のほうは柔和なトーンになり、右手のメロディに左手の伴奏がつく。上昇形なので拡がりが感じられる。
ベートーヴェンぐらい、単純な素材を有機的に組み立てて壮大な伽藍(がらん)をつくりあげた作曲家もいないと思う。たとえばチャイコフスキーは、あとからあとから新しい発想が生まれるので、モティーフの無駄使いで有名だった。
「ピアノ協奏曲第一番」。ソリストがジヤーン、ジャーン、ジャーンと響かせる和音の後ろでオーケストラが奏でる勇壮なメロディは、全曲を通じてこのシーンにしか使われていない。
「熱情ソナタ」には、「運命交響曲」のように同じ音を三回打つ「運命の動機」もたくさん出てくる。まず、「レ♭レ♭レ♭レ♭ド」というシンプルな形、ついで連続した形で。なかでも、鍵盤(けんばん)の低いところと高いところで交替に打ちつけるシーンは迫力満点だ。「運命
の動機」はそのあと低音部でうなりを上げ、そこに「ドーラ♭ファー」の第一主題がかぶさってくる。
「ドーラ♭ファー」にしても「運命の動機」にしても、たった三つの音でこれだけドラマティックな楽曲を作り上げてしまうベートーヴェンさん、尊教します。
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(1770〜1827)
ドイツの作曲家。主にウィーンで活動。古典派三巨匠の一人で、ロマン派音楽の先駆。聴力を失いながらも、9曲の交響曲や歌劇「フィデリオ」ほか不朽の傑作を多く遺す。