バレエ『椿姫』
ドラマを紡ぐ、ショパンの音楽
「別れの曲」「革命のエチュード」「雨だれの前奏曲」。ショパンのビアノ曲にはロマンティックなタイトルが多いが、実は作曲家がつけたものではない。ロマン派の作曲にしては珍しく感情を表に出すことを嫌ったショパンは、同世代のシューマンやリストが文学的なタイトルで作品を飾ることにも懐疑的だった。ジョルジュ・サンドが「24の前奏曲」の各曲に物語を思わせるタイトルをつけたときも、激怒したという。
そんなショパンのピアノ曲だけを使って『椿姫』を制作したノイマイヤーは、彼の音楽の内面性、内に秘めた情熱、微妙な心のうつろいを見事に身体表現に転化させている。
たとえば、有名な第3幕「黒のパ・ド・ドゥ」でのバラード第一番。1935年、故国のワルシャワを去ったショパンがパリで華やかな生活を送っていた時代の傑作だ。荘重な序奏とともに、黒いヴェールをつけたマルグリットがアルマンのもとにやってくる。ビアノが波うつ第1主題を奏でると、アルマンが顔をあげる。この主題は「逡巡の主題」ともいうべき性格をもっていて、ふと気持ちが動き、また沈み、再度動き、発展していく。振付もまさにその通りで、アルマンはマルグリットのほうに行こうとしていったん思いとどまり、しかし意を決して歩み寄る。マルグリットはヴェールをはずす。抑制は解け、二人は激しく求め合う。激情がおさまったあと、甘美な第2主題につけたゆったりした踊りは本当に美しい。ショパンの音楽を深く理解していることがよくわかる振付だ。
第1幕を覆っているピアノ協奏曲第2番は、1829年、ワルシャワ時代に書かれた。第2楽章は、当時恋していた歌姫コンスタンツィアへの初々しい思いが溢れている。ノイマイヤーが、アルマンとマルグリットの初めてのパ・ド・ドゥにこの楽章を使ったのも当然だろう。青年の一途な思いに打たれたマルグリットは、世慣れた高級娼婦から一人の恋する女性へと変貌する。
第2幕で使われている「24の前奏曲」は1838年、ジョルジュ・サンドとともに赴いたマジョルカ島で書かれた傑作。ひとつひとつの曲は1分〜5分だが、コンパクトな中に複雑な感情が凝縮されている。『椿姫』ではこのうち4曲が実に効果的に使われている。
陰諺な第2番は、2人の仲に反対するアルマンの父親の登場場面。マルグリットが手を差し出しても取ろうとしない父親。しかし、旋回する第17番は柔らかな雰囲気に包まれ、二人が、実は同じ思いをいだいていることが示唆される。第15番「雨だれ」の開始とともに父親はマルグリットに近寄り、やさしく頭をなでる。「雨だれ」の中間部は、雨音を思わせる連打音が執拗に打ち鳴らされ、「前奏曲」中もっとも鬼気せまる音楽。ここで劇中劇『マノン・レスコー』のマノンとデ・グリューが登場し、カップルとともに踊る。侍女からマルグリットの手紙を渡されたアルマンが絶望の淵に沈む場面では、激しい感情をぶつけるような第24番が使われ、彼の苦悩があますところなく映し出される。
悲しい物語だけに暗い色調の音楽が多いが、ときにはコミカルなシーンもある。第2幕の舞踏会シーンでは、ウィンナ・ワルツの形式で書かれた「華麗なる円舞曲」第1番(1835)が使われている。ダンサーたちのステップに合わせてゆっくり弾かなければならないピアニストは大変だろう。曲の終わり、プリュダンスはピアノの上に腰掛け、ピアニストの頭から帽子を取りあげ、「3つのエコセーズ」の第1曲で軽やかなステップを披露する。つづく「華麗なる円舞曲」3番は輪舞。男性陣が手をつなぎ、女性陣がくぐる踊りに興じているところにパトロンが現れ、怒ってピアノの鍵盤をジャーンと叩く。アルマンの腕の中にいるマルグリットはパトロンにもらったネックレスを投げつけ、パトロンが下がるところで、ソナタ第3番の3楽章ラルゴの序奏が始まる。心憎い演出だ。
ソナタ第3番は、1844年に書かれた。故国の父が亡くなりショックを受けたものの、ジョルジュ・サンドの尽力で姉に会うことができ、力を得て作曲した最後の大作である。第3楽章ラルゴは揺れるようなゴンドラのリズムに乗せて、強い憧れを思わせる旋律が奏でられる。決然とした序奏は、パトロンのもとを離れ、アルマンとの恋に生きることを決心したマルグリットの強い思いを象徴しているのだろう。主部の開始とともに二人は背中合わせで歩みより、静かに「白のパ・ド・ドゥ」を踊りはじめる。
ラルゴの後半部分は、各シーンで印象的な使われ方をしている。プロローグはマルグリットの遺品の競売場面。ピアニストが会場に展示されているピアノでラルゴを弾きはじめるが、アルマンの登場ともに中断する。父親に説得されたマルグリットが泣きながらアルマンと踊る第2幕のシーンもラルゴだ。
『椿姫』で流れる音楽はいずれもショパンの代表作だが、一曲だけ、「ポーランド民謡による大幻想曲」という珍しい作品が出てくる。1828年、18歳のショパンが書いた力作で、バレエでは序奏と第1部が使われている。アルマンがマルグリットへのあてつけにオランプと踊るシーンである。2年後のピアノ協奏曲第1番と似た雰囲気をもちながら内容的には彫りの浅いこの作品は、二人の偽りの関係を暗示しているようだ。
ショパンの出世作となったピアノ協奏曲第1番からは、第2楽章ロマンツェが第3幕の最後のほうで使われ、切々と歌われるメロディが涙を誘う。マルグリットの死後、献身的な侍女から、主人が最後に記していた日記を渡されたアルマンは、彼女の真実の心を知る。舞台の後方では、病に苦しむマルグリットが必死の思いでペンを走らせる様子が演じられる。オルゴールのようなカデンツァでは、『マノン』の最後の場面があらわれ、デ・グリューが瀕死のマノンを連れてさまよい歩く。自分も瀕死のマルグリットはマノンに近づき、同調して踊る。やがて、ソナタ第3番のラルゴが流れ、マルグリットは日記の最後のページを書き終えて侍女に託し、いったんは起き上がって歩み、最後の和音で倒れ込み、息絶える。
音楽は無限の余韻を残して消え、バレエも終わる。