「演奏家と批評家の危うい関係。」(東京人2017年10月号)

演奏家は、ときに評論家によって光を当てられ、ときに評論家によってその道を閉ざされる。かつては、そういう大物評論家がいたという。

演奏と執筆、二足のわらじを履く筆者の心の内。

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一九六〇年十月、ニューヨークのカーネギー・ホールで行われたスヴャトスラフ・リヒテルのリサイタルは、ニューヨーク・タイムズの評論家ハロルド・ショーンバーグによれば、シーザーの「来た、見た、勝った」を地でいく成功だったらしい。そのひと月後、同じホールでサンソン・フランソワのリサイタルが開かれたが、批評家たちはあまりに自由なアプローチについて行けず、とりわけショーンバーグは、彼のショパンを「単なる個人的なおふざけ」と切って捨てている。

フランソワの自由奔放なスタイルを愛したのは、フランスで最も権威ある「フィガロ」の評論家ベルナール・ガヴォティである。一九五〇年、ガヴォティは「ついにひとりの演奏家があらわれた!」という書き出しで、「フランソワのようにセンスがあり、危険と隣り合わせの感覚をもち、場合によっては普通と変わったことをしたがる個性的な芸術家を見つけるのは、愉快なことだ」と熱っぽく語っている。

フランソワを葬ったのも、同じガヴォティだつた。一九六八年、プレイエルホールでのリサイタルについてガヴォティは「サンソンへ」と題した批評で、こう書いた。「コンサートの前半はみじめで、あなたには全くふさわしくないものでした。あなたは演奏する状態ではなかった。やったことが間違いだったのです」。その二年後、フランソワは四十六歳の若さで亡くなっている。

ニューヨークのショーンバーグ、パリのガヴォティのように、生殺与奪の大物評論家というものが、昔はたしかに存在した。

我が国の吉田秀和もその一人だったのだろうか。「壊れた骨董品」と評したホロヴィッツの例をとるまでもなく、彼の批評対象は海外のビッグ・アーティスト、もしくは内田光子のような海外在住の日本人に限られていた感があるが、毎日コンクールで優勝したばかりの海老彰子がデビユー・リサイタルを開いたときは、新聞に批評を書いている。ピアノ界の星として音大の教師たちがほめそやしているが、先生に教わったことを弾いているだけだ……というような内容だったように記憶している。

たしかに、海老はプログラム内では師の指導に忠実に手堅く弾いていたが、アンコールでは生来のテンペラメントが花開き、次から次へとくり出される凄演に客席は沸いた。しかし、アンコールを聴かない主義の吉田は、この機会を見逃したのである(その後海老は、ショパン・コンクールに入賞するなど国際的キャリアを積み重ねている)。

私が一九八〇年にデビューしたときは、毎日新聞の週評をつとめる大木正興が聴きにきたので、事務所サイドは大いに心配したものだ。何人もの演奏家が、彼の酷評でステージを去っているという話だった。幸い、そのときの批評は好意的なもので、とくにドビュッシーがほめられていたので、爾来ドビュッシー弾きとしてビアノ界の片隅に居残ることを許された。同じ欄でとりあげられたのが、パリ音楽院に学んだヴァイオリニストの森悠子だったが、後年、長岡京アンサンブルを主宰し、京都フランス・アカデミーで多くの若手を育てることになる彼女も、自分の活動の出発点はこのときの批評だったと語っている。

評論家の”誤読”で、今も二刀流を続けることに。

その後私は、師安川加壽子の評伝で芸術評論の登竜門である吉田秀和賞を受賞し、コンサート評を書ける身分になったものの、あまり気がすすまなかった。スポーツの世界では元選手が解説をつとめているが、スポーツと芸術は違うし、そもそも演奏家に引退はないから、現役が現役を評することになる。なまじ演奏技術や楽器、作品のことを知りすぎていると、それに縛られて見方が狭くなるように思う。

実際に、ある新聞社から依頼されて、フランス人ピアニストによるドビュッシーの全曲演奏を聴きに行ったとき、私が批評を書くと知らされた彼は顔をしかめ、「何という恐ろしいこと!」と叫んだものだ。

二〇〇二年から三年間、朝日新聞の書評委員をつとめた際には、コンサート評の特殊性、演奏家の置かれた立場について思い知らされた。書評やレコード評なら、評が出たあとで作品を読んだり聴いたりして、個々の感想をもつことができる。評者に”誤読”があった場合は、それを明らかにすることもできる。しかし、ライヴ・パフォーマンスの場合は、テレビやラジオで放送されない限り、その日その時刻に会場に居合わせた人にしか体験することができず、従って批評の批評をすることもできない。これはずいぶん違うことだ。

私は過去に一度だけ、誤読によるコンサート評という珍しい経験をしたことがある。

一九九七年に『ドビュッシー想念のエクトプラズム』を上梓し、記念リサイタルを開いたとき、あるメディアに、「青柳の本によれば、ドビュッシーは十九世紀末デカダンスに深くなじみ、グロテスクの美に傾倒していたそうである。しかし、彼女の演奏にはそうしたところはまったく見られなかった。つまりこの弾き手は、自分の演奏をもって自分の論を裏切ったのである」という意味の批評が掲載された。

しかし、私の本を最後まで読めば、まさにその矛盾こそドビュッシーの本質であり、音楽とは「人を楽しませるもの」「耳に心地よいもの」であるべきだと判断した彼が、「グロテスクの美」を未完の作品に封印したことがわかるはずだ。

もともとモノ書き志向だった私は、ドビュッシーの評伝を機に執筆活動に専念するつもりでおり、記念リサイタルはサヨナラ公演になるはずだった。

演奏と文筆の二刀流など考えられなかったからだ。しかし、この批評がはからずも私をステージにひきとめることになった。つまり、誤読によってピアノを「やめることをやめる」ことができたのだから、今となっては評論家に感謝している。

2017年9月4日 の記事一覧>>

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