【書評】ナイジェル・クリフ著『ホワイトハウスのピアニスト』(2017年10月22日付東京新聞)

ホワイトハウスのピアニスト ナイジェル・クリフ著
(松村哲哉訳、白水社・5184円)

◆冷戦下のモスクワが熱狂

[評者]青柳いづみこ=ピアニスト

一九五八年五月、アメリカのピアニスト、ヴァン・クライバーン(一九三四〜二〇一三年)は、熱狂するニューヨーカーの前で凱旋(がいせん)パレードを行っていた。冷戦時代、旧ソ連が国の威信をかけて開催した第一回チャイコフスキー・コンクールで、なんと優勝してしまったのだ。東側のコンクールには、しばしば「政治」が介入する。しかし、ロシア音楽をロシア人より情緒豊かに演奏するヴァンの前では、それも無力だった。聴衆は熱狂し、リヒテル、ギレリスなどの審査員も、スタンディング・オベーションで彼を讃(たた)えた。

文化大臣がフルシチョフにお伺いを立てると、優勝させてよしという許可が下りた。彼は英雄になり、最初のアルバムはクラシックでは前代未聞のビルボード七週連続トップを記録した。

本書は、米ソに愛されたピアニストの生涯を、冷戦時代の政治情勢とからめて綴(つづ)った力作である。ヴァンは、アイゼンハワーからオバマまでの全大統領の前で演奏する初めてのピアニストになった。ソ連の対空ミサイルによってU−2偵察機が撃墜され、一触即発の時期ですら、ヴァンだけはモスクワで熱狂的に迎え入れられた。八七年の米ソ首脳会談では、ホワイトハウスで流行歌「モスクワの夜」を弾き語りし、ゴルバチョフの心を和ませた。

しかし、彼自身の演奏人生は決して幸せなものではなかった。コンクール優勝から二十年後、ステージ活動から退いてしまう。名声を得てもおごることなく、「ピアノを弾くことを神聖な使命と見なす」姿勢をくずさなかったが、それが災いしたのかもしれない。「常に二十三歳の優勝ピアニストのままであり、他に何をやったとしても、それを超えられないこと」に疲れたのだろう。十年後に活動を再開したものの、往年の輝きは戻ってこなかった。

多方面の取材を通して描かれる壮大な歴史物語の中から、鉄のカーテンを行き来したピアニストのひたむきさが浮かび上がってくる。

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