「ピアノとスポーツ」(2017年8月27日付 日経新聞朝刊 文化面随想)

2020年には東京オリンピックが開催される。すでに成果を挙げているティーンエージャーたちの活躍が楽しみだし、もっと下の世代から急成長する逸材が出るかもしれない。

同じ年に、ピアノのオリンピックともいうべきショパン・コンクールがワルシャワで開かれる。マルタ・アルゲリッチやマウリツィオ・ポリーニが巣立ち、一色まこと「ピアノの森」にも登場するからご存じの方も多いに違いない。4年に一度のオリンピックと違ってこちらは5年に一度。16歳から30歳まで、世界中の腕達者の若者が集まってくる。

オリンピックにも参加標準記録や国内選考会があり、出場するだけでも大変だが、ショパン・コンクールも同じだ。書類審査とDVD審査、予備予選を経て出場を許されるのはたった80人。第3次予選で10人のファイナリストを選び、3人の入賞者が決まる。コンクールの権威を守るために優勝者が空位の年もある。それで5年に一度。嗚呼。

日本は、内田光子の1970年第2位が最高で、まだ優勝者を出していない。アジアでも、ヴェトナムのダン・タイソンは80年、中国のユンディ・リは2000年に優勝し、15年の優勝は韓国のチョ・ソンジンだったから、日本だけ取り残されている。いったいどこを改善すればよいのだろう。指導者は思い悩む。

参考になると思うのは水泳のケースだ。1996年のアトランタ五輪では前評判が高く、金1つを含む5個のメダル獲得を宣言したのにゼロに終わった。これをきっかけに大改革がおこなわれた。

それまでの水泳競技は各選手が所属するスイミング・スクールごとにトレーニングし、対抗意識から情報交換もなかった。1人のコーチが長期間同じ選手を指導するため、客観的な視点をもちにくい。シドニー・オリンピックの競泳日本代表のヘッドコーチに就任した上野広治は、これではいけないと重い、コーチ、クラブ間の垣根を取り払い、他のコーチの指導も受けられるようにした。さらに、コーチのミーティングを開き、互いの経験を語る場を設けた。成果は確実に上がり、最近では金を含む複数のメダルを獲得している。

日本には複数のピアノ教育団体があり、オーディションやコンクールを実施しているが、指導そのものは個々なのでレスナーに任されている。「門下」の意識が強く、先生を変えると破門扱いされたのは昔のことだが、今も複数の指導者に師事するのは簡単ではないときく。公開講座で海外の教授に指導を受ける機会もあるが、根本的な改革はしにくいシステムだ。

奏法も解釈も日進月歩だ。央冷えに追いつき追い越せとがんばっていた昭和30年代には指をしっかり上げて弾く奏法が主流だった。解釈も、楽譜に書いてあるとおりに弾くように厳しく指導された。しかし現在では、もう少し鍵盤に力を伝えていく弾き方が推奨されるし、個性的な演奏も認められるようになっている。テキスト研究もすすみ、作品の成り立ちや作曲家の意図について踏み込んだ解釈も可能になっている。このあたりの対応が個別の指導体制では遅れる可能性がある。

ピアニストにはつきものの腱鞘炎など、身体面のトラブルも、症状に見合った治療方法もわからないまま、1人でかかえこみ、悪化させてしまうことが多い。伝統的な練習に加えて、スポーツ・トレーニングなどを通して必要な筋肉を鍛え、柔軟性を養うことによって、故障を防ぎ、よりよい演奏ができるようになるだろう。

もちろん、ピアノ演奏はスポーツではなく芸術だから、すべてが同じというわけにはいかない。審査によって優劣が決まるあたりは、採点競技であるフィギュア・スケートや体操に似ている。しかし、両競技の場合は技の難易度によって細かくポイントが分かれ、減点方法も定められている。これをピアノに当てはめるなら、たとえばショパンのもっともむずかしい練習曲はH難度で基礎点が高く、ひとつ音をミスするたびにそこから0.1減点していくなど、当然のことながら、ピアノコンクールではこんな審査方法はありえない。ミスは多少あっても音楽的内容がすばらしければ、当然そちらが優位になる。最高難度の作品を演奏しなくても美しく感動的に弾けばそちらのほうが評価が高くなる。

いっぽうで、「すばらしい」「美しい」は審査員の主観によるものだから、ことはややこしい。ショパン・コンクールはショパンのピアノ曲のみで競うので、ショパンにふさわしい演奏をする必要がある。この「ショパンらしい演奏」がまた曲者で、筆者がコンクールの現場で取材した経験からいくと、審査員それぞれのいだくイメージがかなり違うのだ。

年度ごとの違いもある。従来のショパン・コンクールは比較的保守的で、あまり逸脱した表現をすると実力があっても落ちてしまうケースも見受けられた。しかし、2015年のコンクールは自由なスタイルが主流で、オーソドックスな演奏は点数が出にくかったような気がする。

こんなふうに、演奏のコンクールでは審査員の顔ぶれ次第で結果もがらりと変わる。それでも、飛び抜けた実力者は必ず上にいくが、受験生としては傾向と対策も練らなければならない。そのとき、グローバル化をめざした水泳競技方式がモノを言うと思うのだ。

門下や学舎にとらわれず、すべての垣根を取り払って自由に情報交換ができる場があればどんなによいだろう。

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