「本の虫日記」(論座 2007年3月号)

本の虫日記

◎1月8日クラシックのピアノを弾きながら文章を書くという二重生活を送っていると、かぎりなく思考が相対的になり、無意識のうちにあらゆるものを比較している自分に気づく。

たとえば、書評とコンサート評。本は何度でも読み返せるが、演奏は聴いたそばから消えてしまう。いきおい、瞬間的に浮かぶ言葉を書きとめることになる。ところが、読書と違ってコンサート会場には隣人がいて、鉛筆を走らせる音がうるさいとクレームがくる。当然のことだ。

こちらは、演奏を聴きながらデッサンしているつもりなのだ。印象派の画家たちが、うつろいゆく自然の様相をキャンバスに描きとめようとしたように。ドガが、踊り子たちの瞬間の姿をとらえようとしたように。

ポール・ヴァレリー『ドガ ダンス デッサン』(清水徹訳・筑摩書房)を読むと、ドガはこうした比較論を嫌ったようだ。「ミューズたちはけっしておたがいに議論したりしない」というのが晩年のドガの口ぐせだった。

「彼女たちは一日中、めいめいひとりきりで仕事をする。夕方になり、その日の仕事を終えると、みんなで落ち合って、彼女たちは踊る。ミューズたちはおしゃべりなどしない」

ドガの言葉を伝えながら、ヴァレリーはやはり比較する誘惑に打ち勝つことができない。「鉛筆を手にしないで物を見ることと、それをデッサンしながら見ることとのあいだには大変な相違がある。

というか、まったくちがうふたつの物を見ているに等しい、と言ったほうがいい。どれほど眼に親しかった物体であろうと、いったんそれを一所懸命にデッサンしようとすると、まるでちがうものになってしまう」

この後ヴァレリーは、括弧つきでこう書く。「(これと、わたしたちが自分の思考を通常以上に意志的な表現をつかって明確化しようとのぞむときに起こることとのあいだには、どこか類似したところがある、思考がもはや同じ思考ではなくなってしまうのだ)」

 * * *

◎1月10日ドガに会ったら即追い出されそうなほど比較好きな私は、ジャンルの違うふたつのものをつきあわせる快楽に耽ることがある。世間では近しいとされているもの同士の相違点を発見したり、逆に何のかかわりもないとされているものの間に意外な接点を見出したり。

山田登世子『晶子とシャネル』(勤草書房)は、後者のアプローチとしてとてもおもしろく読んだ。性を大胆に歌った「『みだれ髪』の歌人」与謝野晶子と断髪でユニセックスなイメージのココ・シャネルでは一見正反対のように思われる。しかし、彼女たちはほぼ同時代に生きたのみならず「『弱きものとされてきた女性の神話を打ち破り』、新世紀をきり拓いて輝きたった新しい才能」だと山田は言う。

晶子は、夫鉄幹のあとを追って1912年にパリにわたり、現地のモードについて感想を残している。ポール・ポワレが女性をコルセットから解放したばかりだったが、晶子は「衣服の中に肉体の線を隠してしまう日本服」を「肉体の美に衣服を調和」させるフランス風の服装に改めたいと語っている。それをさらに推し進め、女性を束縛しない活動的なファッションを考案したのがシャネルだった。

かといって、彼女は「女らしさ」を捨てたわけではない。シャネルは「青鞜派」に与しなかった晶子と同様、いわゆるフェミニズムとは対極に位置していたという山田の指摘が興味深い。彼女はその男の愛玩物として男に媚びる女を一掃したが、男を愛し、また「男に愛される女」を理想とした点で晶子に共通している。彼女たちは、「カレシ色」に自分を染めるのではなく、より自分らしさを磨くことによって積極的に男性を魅惑することをめざしたのだった。

***

◎1月12日現実に生きた女性たち、晶子やシャネルがばりばり仕事をこなしながら女性としても十全に愛されたのに対して、オペラのヒロインというのはどうしてこうも男によって破滅させられる女が多いのだろう。ジャン・スタロバンスキー『オペラ、魅惑する女たち』(千葉文夫訳・みすず書房)を読みながら、そんなことを考える。「歌う、誘惑する」の章は、ユリシーズを誘惑するシレーヌの言葉ではじまる。「さあ、ここへ来て船を停め、わたしらの声をお聞き」。しかし、耳栓をしたユリシーズにはその声が聞こえない。ワーグナー『タンホイザー』のヴェヌスも男をひきとめるために盛大な宴を催すが、失敗する。『パルジファル』のクンドリーに至っては、クリングゾルの思うままに操られる「男の犠牲になる女」だ。ニーチェがクンドリーより好んだというカルメンにしても、最後はホセの刃に倒れる。「どの物語にあっても、誘惑する女には運の悪い結末が待ち受けている」

プッチー二やマスネがオペラ化したマノン・レスコーはどうか。「誘惑する女という点からすると、マノンは天真爛漫なやり方で、さしたる努力のあとも見せずにそんな女となっている」とスタロバンスキーは書く。彼女が男に求めるのは、全面的で有無を言わせ隙隷属だ。しかし最後は、騙しても騙しても彼女を愛することをやめない男に足をとられ、哀れ砂漠の真ん中で命を落とすはめに陥る。

比較好きとしては、デュカのオペラ『アリアーヌと青髭』のゲネプロが、R・シュトラウス『サロメ』のパリ初演の翌日に行なわれたという話も見逃せない。前者は誘惑者、後者は被誘惑者と見せかけて結末は逆になる。青髭の妻となったアリアーヌの命が助かるのは、前妻たちとは違って隷属状態に満足しなかったからだ。彼女は、悲しげな顔をした同胞たちを着飾らせることによって勇気づけようとする。

ちょうど、シャネルがファッションを変えることによって女性たちを解放しようとしたように。

ポール・ヴァレリー著
『ドガダンスデッサン』
清水徹訳筑摩書房2940円

山田登世子著
『晶子とシャネル』
動草書房2310円

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