「はじめてサティを弾く 教える 十九世紀末の時代をよむ」(レッスンの友 1997年)

エリック・サティとその時代

青柳いづみこ(あおやぎ・いづみこ ピアニスト)

一八六六年に生まれたサティは、ドビュッシーの四歳年少、時代的には世紀末の作曲家にはいります。

けれども、この人は無名時代が長く、作品が世に出たのは一九一○年すぎからでずから、むしろ二十世紀の作曲家として考える方がいいかもしれません。

文学キャバレ「黒猫」にたむろして

世紀末時代のサティは、めいっぱい世紀末の頽廃的な文化を満喫していました。

十三歳からパリ音楽院でピアノとソルフェージュを学んだサティは、十九歳で和声法のクラスに入ったものの、優等生にはほど遠く、ドビュッシーのようにローマ大賞の作曲コンクールに応募したりすることもありませんでした。

一八八七年に兵役を終えると音楽院に戻るのがイヤになり、モンマルトルの文学キャバレ「黒猫」にたむろし、伴奏ピアニストとして居すわってしまいます。『三つのサラバンド』や『三つのジムノペディ』は、この時期の作品です。

愛読書はオカルトもの

読書では、これまた世紀末の青年たちの多くがそうだったように、サティは、「世紀末の魔法道士」ジョセファン・ペラダンの書いたオカルト関係の書物を愛読していました。一八九〇年、このペラダンが秘密結社「カトリック薔薇十字団」(注一)を組織すると、その公認作曲家として活動をはじめます。この年、『三つのグノシエンヌ』が書かれました。

しかし、ペラダンとの仲は長ぐはつづかず、九二年の「第一回薔薇十字展」で『薔薇十字教団へのファンファーレ』や『星たちの息子』を初演したわずか五ヶ月後には公開絶縁状をたたきつけ、ドビュッシーにも劇音楽を依頼したことがある悪魔主義者のジュール・ボワに近づき、ボワの主宰する雑誌に『グノシエンヌ第六番』を寄稿したりしています。

当時サティは、モンマルトルのコルトー街六番地に住んでいました。「モンマルトルの画家」として知られるモーリス・ユトリロの母、シュザンヌ・ヴァラドンとの短い恋愛があったのは、一八九三年、サティ二十七歳のときのことです。

ドビュッシーとの親交

お金がなかったサティは…

ドビュッシーとは、「黒猫」のあとにつとめた酒場「オーベルジュ・デュ・クルー」で知り合ったようです。意気投合した二人は、世紀末の溜まり場のひとつ、独立芸術書房に連れだってでかけました。九七年には、ドビュッシーがオーケストラ曲に編曲した『ジムノペディ第一番・第三番』が、シヨーソンの指揮ではじめて公式に演奏されています。

一八九八年、世紀末の教祖的存在だったマラルメが死去した年、モンマルトルを離れたサティは、郊外の町アルクイユに転居しました。お金がないので、モンマルトルの仕事場まで、二〜三時間かかる道を毎日徒歩(!)で通っていたそうです。

ドビユッシーの方は、一九〇二年にオペラ《ペレアスとメリザンド》の成功で、一流作曲家の仲間入りをしましたが、同じ年、はじめてサティの作品に対して、作曲家協会から著作権料が払われたというのは、面白い偶然です。

一九〇三年ごろ、お金がなくてピアノが買えなかったサティは、週に一回ドビュッシーの家でピアノを弾かせてもらい、夕食をおごってもらうことにしていました。そのとき、ドビュッシーにいわれた「君はフォルム(形)の感覚をもつべきだ」という言葉が、サティの反骨精神に火をつけることになります。『梨の形をした三つの小品』は、こうして生まれました。

一九〇五年には、「もう一度音楽教育を学びなおすため」三十九歳で私立の音楽学校スコラ・カントルームに入学し、三年間対位法を学んでいます。先生だった三歳年下のルーセルに言わせると、何も教えることはなかったそうですが。

新しい芸術の芽生え

——抽象的なものへ

ちょうどそのころ、モンマルトルの「洗濯船」(注二)にたむろする若い芸術家たちの間で、新しい芸術が芽生えはじめていました。

中心人物のピカソは、一九〇七年、アフリカの芸術にヒントを得た「アヴィニョンの娘たち」で大きく作風を変え、「キユービズム」(注三)の基礎をつくりました。ここに、友人のブラックも加わり、絵画の世界は一挙に抽象画へとすすんでいきます。

詩の世界でも、「洗濯船」の住人マックス・ジャコブや、『ミラボー橋』で知られるアポリネールが、現代詩に通ずる新しい詩法をあみだそうとしていました。

世紀末から二十世紀に至る芸術の一番の変化といったら、要するに、絵画や文学が、それまでの見たりきいたりしてすぐに意味がわかるものから、そうではない抽象的なものに変わっていったということでしょう。この潮流の中で、サティは発掘され、紹介され、はじめて評価されました。

音楽はもともと抽象的なものですから、何をもって抽象的な音楽とするのかむずかしいですが、新しい芸術の担い手たちは、教会音楽を思わせる簡潔なサティの作品の中にこれまでにない革新性をみいだし、大いに共感をおぼえたのでした。

一九一一年には、独立音楽協会で、ラヴェルと友人のピアニスト、リカルド・ヴィニエスによって、サティの『星たちの息子』や『ジムノペディ第三番』、『サラバンド第二番』が演奏されました。この年はまた、キュービズム初の大規模な展覧会が開かれています。

一三年は、ストラヴィンスキーのバレエ音楽『春の祭典』が初演された年ですが、この年サティは、ドビュッシーを通してストラヴィンスキーと知り合い、翌一四年には、女流画家ヴァランティーヌ・グロス(のちにユーゴーの孫と結婚)のサロンで、新芸術運動の推進者コクトーと知り合い、一足とびに二十世紀芸術の中心に位置するようになります。当時、サティは四十八歳、コクトーは二十三歳、親子のような年齢差でした。

一九一七年には、コクトーが台本を書き、ピカソが舞台装置と衣装を担当し、サティが音楽を作曲し、デイアギレフひきいるロシア・バレエ団が出演し、アポリネールがプログラムの解説を書いた画期的なバレエ音楽『バラード』が初演され、客席は満員でしたが、大変なスキャンダルをまきおこします。この作品を批判したある批評家にサティが送った葉書の文面が軽犯罪法にふれ、サティは監獄にぶちこまれてしまったというエピソードが残っています。

いつも先を見ていたサティ

一九一八年、ドビュッシーが亡くなった年、コクトーは評論集『雄鶏とアルルカン』の中で、サティを新しい芸術運動の指導者に定めますが、サティは一貫してこの書物を否定していました。

「若い人達が自分の作品の中にみていたもの」を彼がどのように感じていたか、彼の直感は、若い世代よりさらに時代の先をとらえていたのではないでしょうか。そのよい例が、一九二〇年に初演された「環境芸術」を先どりした『家具の音楽』です。

サティ晩年の八年間は、めまぐるしく動く芸術運動と重なりあっています。一八年にはツァラの「ダダ宣言」(注四)、二〇年には六人組誕生、二三年、サティを中心にしたアルクイユ楽派(注五)結成、二四年にブルトンの「シュールレアリスム宣言」。同じ年、サティ最後のバレエ音楽『本日休演』が初演されました。幕間にピカビアとルネ・クレールが制作した映画が上演され、サティもデュシャン、マン・レイなどダダイストの面々と出演しています。

サティの生き様

サティが一九二五年に五十九歳で亡くなった時、主のいなくなった部屋をあけた友人たちは、そのあまりの貧しさに愕然としたそうです。みじめったらしいベッド、何とも名伏しがたいものでおおわれているテーブル一台、ペダルがひもでくくられている、古ぼけたこわれたピアノ……。

サティの生き方は、あきらかに他の近代の作曲家たちと異なっていました。彼は、フォーレのように貴族のパトロンに庇護されたりしなかったし、ドビュッシーのように演奏旅行のギャラで生活したりしなかったし、ラヴェルのように注文で作曲したりしなかったし、ミヨーのように学校の先生をすることもありませんでした。

サティの一生は、真の意味の放浪者ーボヘミアンだったということができるでしょう。

 

注釈

注一 カトリツク薔薇十字団

十七世紀ボヘミアを中心に興った神秘主義的友愛団。参加者には錬金術師が多く、東方の秘伝的知識(薔薇)とキリスト教(十字架)の結合を意味する薔薇十字をシンボルにした。十八世紀には消滅し、フリーメーソンに発展したともいわれる。

十九世紀末に流行した薔薇十字団は、実質的にはサロン性の強いオカルテイズム(隠秘学)で、発生当時のものとは直接関係ない。

注二 洗濯船(バトー・ラヴォワール)

モンマルトルのエミール・グードー広場十三番地に建つ三階建てのアトリエ長屋。一九〇四年から五年間、ピカソがここに住んだほか、同じく画家のヴアン・ドンゲン、詩人のマックス・ジヤコブも住んでおり、近くに住んでいた画家のブラック、詩人のアポリネールも頻繁に訪れ、二十世紀芸術発祥の地となった。

注三 キュービズム(立体派)

ヨーロッパ絵画の伝統的な遠近法、量感、色の調和という三原則を全く無視し、事物を造形的な立体としてとらえようとした抽象芸術の流派。

起源は一九〇七年にピカソが黒人芸術にヒントを得て発表した「アヴィニョンの娘たち」であり、ブラツクがこれに賛同し、一九一一年には大規模な展覧会が開かれた。

注四 ダダイスム、ダダイスト

第一次世界大戦によって起こった虚無と幻滅の気分を強く反映し、辛辣な皮肉、徹底した否定を武器に、社会的にも美学的にも因習を破壊しようとした芸術革命。美術家ではデュシヤン、マン・レイ、ピカビアらが活躍。トリスタン・ツァラの「ダダ宣言」は一九一八年。

注五 アルクイユ楽派

一九二三年、サティを中心に、アンリ・ソーゲなど若い信奉者たちによって結成された作曲家のグループ。サテイが住んでいたパリ南方の貧民地区アルクイユーカシャンからの命名。

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