「ドビュッシーのお引っ越し」(レッスンの友 1996年8月号)

*ドビュッシーの住居の変遷 青柳いづみこ

ドビュッシーのお引っ越し

ドビュッシーが生まれたのは、サン・ジェルマン・アン・レイという、パリ近郊の町です。両親は、瀬戸物業を営んでいました。ドビュッシーの生家は現在ドビュッシー博物館になっていますが、実際には作曲家は、ここに2歳までしか住んでいませんでした。

その後、商売が思わしくなくて店をたたんだ一家は、一時、母親の実家のあるクリシーに身を寄せたあと、1867年、作曲家5歳の年にパリに出てきて、サン・ラザール駅近くのヴァンティミル街11番地(9区)−地図内の番号1−に居を定めました。父親は世帯道具のブローカー、母親は針仕事で家計を助けました。パリでは、どの地区に住むかで暮らし向きが分かりますが、サン・ラザール界隈の8区や9区は、最も質素な地域だったようです。

翌年、父親がルーブル宮殿そばの印刷店に就職したので、一家は、少し生活程度の高い1区のサン・トノレ街69番地−地図内2−の5階に移りました。しかし、前にお話ししたように、1871年、父親がパリ・コミューンで逮捕されたため、母親は子供たちを連れて、ほとんど貧民窟に近いピガール街59番地(9区)−地図内3−の屋根裏部屋に引っ越したのです。

1874年9月、ドビュッシーがパリ音楽院に入学して3年目に、一家は、8区にあるクラペイロン街13番地の6階一地図内4−に転居しました。父親も釈放されて就職し、生活が安定したのと、息子の通学に便利なように、でしょう。当時音楽院があったマドリード街地図内aは、エウロップ広場一地図内b−をはさんで線路の向こう側に位置していました。ここには、ローマに留学するまで住んでいました。もっとも、実際には、81年以降作曲家は、音楽院にさらに近いコンスタンティノープル街28番地一地図内c−のヴァニエ夫妻のアパートにいりびたって、ほとんど両親の家に帰らなかったといわれています。

1887年、ローマから戻ったドビュッシーは、また両親と同居をはじめましたが、翌88年、一家は8区と9区の境界線にあるベルリン街(現在のリエージュ街)27番地一地図内5−の中庭に面した5階に引っ越しました。瀟洒な中庭には、二つ入口がついていて、ドビュッシーは、両親とは別の入り口から出入りしていたといいます。フランスでは、住む階(寝台車と同じで、下の方が家賃か高い)と、通りに面しているか中庭に面しているか、で部屋のランクが分かれますから、これは、ドビュッシーがこれまで住んだ最高の住まいだったといえましょう。

しかし、89年秋ごろからギャビーと関係のできたドビュッシーは、92年9月、サン・ラザール駅の真裏にあるロンドン街42番地一地図内6−の屋根裏部屋で同棲生活を始めました。ここが、考えられる限り最もひどい住まいだったことは、本誌3月号でお話しした通りです。みるにみかねたショーソンとルロールは、1年後、ぐっと高級な17区のギュスターヴ・ドレ街10番地−地図内7−の6階の、中庭に面した部屋を世話しました。玄関と家具つきの3つの部屋があり、ショーソンは家賃や照明・暖房費を負担し、ルロールは光かがやく水彩画をプレゼントしました。そんな好意を、テレーズ・ロジェとの婚約破棄でぶちこわしてしまったのですから、もったいない話です。

その後ドビュッシーは、1899年10月頃、リリーと結婚したのを機に、やはり17区の閑静な住宅街にあるカルディネ街58番地一地図内8−の6階に引っ越しました。この建物の外側には、「ここでドビュッシーが、『ペレアスとメリザンド』を作曲した」と書かれたプレートが貼ってあります。でも、実際にはこのころ彼は、とっくにオペラの作曲を終えていたのです

ドビュッシー最後の住居は、1905年10月、シュウシュウの誕生を機にエンマと移り住んだブーローニュの森袋小路24番地−地図内9−の一軒家です。高級住宅街の16区は、東京でいえば田園調布のようなところで、ピガールの貧民街からここまで来たか、と感慨深いものがあります。もっとも、裕な銀行家夫人だった妻に合わせて召使いや料理人を置く生活ぶりはいささかドビュッシーの手に余り、とで首がまわらなくなって大変だったのですが……。

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