ワルシャワの冬は寒い。ダウンを通しても冷気が沁み通ってくる。
2015年は第17回ショパン国際ピアノ・コンクールが開かれる年。世界各国のコンテスタントたちは、4月の予備予選に向けて、プログラムに磨きを入れているころだろう。
といっても、全員が予選のためワルシャワに行けるわけではない。多過ぎるコンテスタントを粗ぶるいするために書類・DVD審査という関門があり、2名の著名な音楽家に推薦書を書いてもらうとともに、画像・演奏とも質のよい動画を提出しなければならない。
曲目は秋の第1次予選と同じ。エチュード2曲とノクターン、そしてバラード、スケルツォ、舟歌など。
「エチュードの精度を上げることが大事だ」2014年12月の締め切り前には、そんな先生たちの叱咤激励が飛び交う。
国内予選や派遣のためのコンクールを設けている国もあるだろう。わが国もしかり。ショパン・コンクール・イン・アジアでは、ポーランドの審査員たちを招いて派遣コンクールを開催する。私が理事を務める日本ショパン協会でも、本場と同じプログラムで3月にコンクールを開く。
ショパン・コンクールは秋に開催されるが、コンテスタントたちの戦いはもうとっくに始まっているのだ。
ポリー二、アルゲリッチ、ツィメルマンらを世に出し、世界中のピアノを学ぶ若者にとって憧れのコンクール。5年に一度だから、オリンピックより間隔があいている。そのうえ、年齢制限(16歳〜30歳)があるので、どんなにがんばっても3回までしか受けられない。1985年のとき5位に入賞したジャン・マルク・ルイサダも、90年に1位なしの2位にはいったケヴィン・ケナーも最初に受けたときは予選落ちだった。
過去16回のうち、第1位が2人出たのが1回、なしが2回あったので、優勝者は15人。そのうち2人のリサイタルを聴く機会が最近あった。
ユリアンナ・アヴデーエワは、記憶に新しい2010年の勝者。アルゲリッチ以来の女性優勝者として話題を呼んだ。非常にクレバーな人で、決して恵まれているとはいえない身体能力を効率よく使い、深いテキストの読みで独自の世界をつくり出す。1980年、初のアジア人優勝者となったダン・タイ・ソンもまた小柄なピアニストで、筋力よりは柔軟性で勝負する。ビロードのようなタッチ、しみじみとした抒情には定評がある。
体力や構成力より、繊細さや優雅さ、内面性が問われるショパン演奏は、本来日本人に合っているはずなのに、なぜかこれまで優勝者がいない。1970年、内田光子の2位が最高で、アジア人としての優勝者もダン・タイ・ソンの他にはユンディ・リを数えるのみだ。
2015年こそ、最後に日本人の名前がアナウンスされるのをききたいものだ。