一冊の本/サンデーらいぶらりい
言葉がとだえて始まるもの
村上春樹『海辺のカフカ』(上・下)新潮社
私は、村上春樹の一級下にあたる。東大入試のなかった年。芸大にもバリケードは立っていたが、クラシックのピアノ弾きなんて労働者階級の逆だから、居心地が悪かった。それでも、浅間山荘事件とか、どこかで同志的感情はあるし、加害者意識もあった。
村上春樹は『やがて哀しき外国語』の中で、長い間、世代なんて関係ないと思ってきたが、アメリカ生活を通して「僕らの世代にはやはり僕らの世代の独自の特質なり経験なりというものがある」と考えるようになった、と述べている。この「特質」と「経験」をキーワードに、長編『海辺のカフカ』を読んでみた。
カフカと名乗る主人公の十五歳の少年。携帯こそ使うが、彼はまぎれもなく我々の時代の十五歳だ。私の通った中学でも、図書館にこもり、ドストエフスキーやカフカを読破する遊びが流行していた。
少年の濃く長い眉の間には、カフカのように深いしわが寄っている。カフカとは、チェコ語でカラスのこと。少年の魂は体を離れて黒いカラスとなり、さまざまな忠告をする。カラスは、アポロンの予言の鳥でもある。このあたり、少年の行動がアポロンの神託に翻弄されたオイディプスと重ね合わされていることと、関係があるかもしれない。
全体主義への“アレルギー”
上すべりする言葉への反発
四歳のとき母と姉が去り、父子家庭に育った少年は、十五歳の誕生日に家出し、夜行バスで高松に向かう。これと入れ子式に、初老の知的障害者ナカタさんの物語も進行する。戦時中、疎開先で意識を失って以来、猫と話ができるようになったナカタさんは、猫さらいの男を殺してしまったあと、やはり高松に向かう。ようやく二つの物語の接点が明らかにされたとき、私は思わず「ぐえっ」と叫んだ。
『海辺のカフカ』には、六九年の紛争で心に大きな傷を負った佐伯さんという元歌手が登場する。彼女の恋人は、封鎖中の大学にしのびこみ、対立セクトの幹部と間違えられて殺されたのだ。『海辺のカフカ』という曲が大ヒット中だった佐伯さんは、二度と歌わなくなり、失踪した。
少年が滞在する高松の私立図書館の司書の大島さんは、事件を次のように解析する。
「想像力を欠いた狭景さ、非寛容さ、ひとり歩きするテーゼ、空虚な用語、纂奪された理想、硬直したシステム。僕にとってほんとうに怖いのはそういうものだ」
極右であれ極左であれ、新興宗教であれ、全体主義に対するアレルギー、上すべりする言葉への反発。『アンダーグラウンド』で表明された嫌悪が、今度は著者の学生時代に起きた事件に向けられる。
六九年~七〇年代を舞台にした作品で、主人公はいつも「紛争」に対して距離をとっているように見えたけれど、私の娘が酒鬼薔薇と同世代に生まれてしまったことの意味を、おそらく終生考えつづけるのと同じように、どうして人間はこうなってしまうんだろう、でもひとごとではないんだという意識は、ずっと村上春樹の中にあったろう。
もうひとつ、音楽家の私は、春樹が『ねじまき鳥クロニクル』について語っている「『井戸』を掘って掘って掘っていくと、そこでまったくつながるはずのない壁を越えてつながる、というコミットメントのありよう」がよくわかる。言葉がとだえたところから始まる音楽は、いわば深層意識の対話。「音楽する」とは、井戸を掘りつつコミットする、『海辺のカフカ』でいうなら、深い森の奥にある「扉をあける」行為なのだから。