25人のファム・ファタルをとりあげた『無邪気と悪魔は紙一重』。
ムージルの短編「トンカ」のヒロインの語り難。
「無意識」の悪をめぐるエッセイ集
連載開始から半年を経て、再び拙著について語る機会が与えられた。春に出版した『無邪気と悪魔は紙一重』は、前著『水の音楽』(みすず書房刊)と同じく、「無意識」の悪をめぐるエッセイ集。古今東西、二五人のファム・ファタルをとりあげている。
文中にそれとなく高校時代の同級生が登場するのだが、彼女に本を送ったら、普通、女は女のことをこんな風に外から見ないんじゃない? と言われた。
フランス文学者の鈴村和成さんが「すばる」に書いて下さった書評の中で、「女のように語るかと思えば、男のように語る」という一節も、面白かった。自分では意識していないのだが、対象とする女性像によって語り口やアプローチががらりと変わってしまうらしい。これはもしかすると、ピアノ弾きたる私の特殊事情かもしれない。
私たち演奏家は、もともと相対人間だ。ショパンとベートーヴェンを弾くときでは、気分がまるで違う。フランス音楽とドイツ音楽では、タッチから何から全部変えなければならない。書くほうでも、テキストに応じて、スタイルがおのずから変化していくよ うなところがある。
全く共感を抱けない音楽は弾けないのと同じように、二五人の女性たちは、どこか一部は私の分身のように思われた。谷崎のナオミ、ラフォルグのサロメ。モーリャック『 テレーズ・デスケルー』では、若い男の愛を得ながら、意を決して自分の醜い部分をさらけ出そうとするヒロインの気持ちが、痛いほどわかる。
なかでも、オーストリアの作家ムージルの短編「トンカ」のヒロインは、いちばん自分に近いように感じられたが、奇妙なことにいちばん書きにくかった。
純朴な女性に見えるトンカが、主人公のあずかり知らぬところで性病に感染し、妊娠していることが判明した。明白な不貞の証拠。しかし、あくまでもトンカの無実を信じたい主人公は、あろうことか処女懐胎を夢想し、医者に冷笑される。
ここで私が主人公の女友達なら、「バッカねぇ、他に男がいるに決まってるじゃない」と言ってやるだろう。
――だって、彼女は絶対に間違ったことはしていないと言いはるんだ。
――なりきってるだけよ。女のウソはね、人格ごと乗り移るんだから、気をつけなきゃダメ。
――私を信じられないなら、追い出して下さいとまで言うんだ。
――甘く見られてるなぁ。
――でも僕、そんなに悪い女だとはとても思えないよ。
――勝手にすれば。
つまり、女の貞操を問題にする小説ではなく、たぶんそうだろうなぁ、と思いつつ、そうではないと思いこみたい男の気持ちを文学的に美しく昇華させた作品が「トンカ」なのである。
……と書いてしまうとミもフタもないので、男性の夢を尊重しつつ、でも言いたいことを言おうとするのが、難しかった次第。