水の精と〈宿命の女〉をモチーフに
絵画・文学・音楽を往還した近著を紹介する
出かけていく誘惑、何もしない誘惑・・・
昨年秋に上梓した『水の音楽 オンディーヌとメリザンド』を書くきっかけとなったのは、ある人物に言われた、「あなたの存在そのものが、人を傷つけるのよ」という言葉だった。
自分が何の悪意もないのに、勝手に人が傷ついてしまうのでは、どうしようもない、と思った。それから、無意識の悪、ということについて考えはじめた。
本の中では、水の精を誘惑の方法別に「網をはる」「ひきずりこむ」「出かけていく」「何もしない」などと区分けしてみた。副題のオンディーヌは「出かけていく女」だし、メリザンドは「何もしない女」にあたる。この分類は、男性を少々たじろがせてしまったようだが、女性の読者は、それぞれ自分にあてはめて、ひそかに楽しんで下さったようだ。
表紙は、ウォーターハウスの『ヒュラスと水の精』。アルゴーが立ち寄ったとある島、ヘラクレスの従者でヒュラスという美少年が、泉の水を汲もうとして、水の精にひきずりこまれてしまう。
睡蓮の間からつぎつぎにたちあらわれ、長い髪に手をやりながら、上目づかいに若者をみあげる水の精たち。画面に描かれているだけで、七人。ひとりひとりの視線を追っていると、くらくらたちくらみがするほど、魔力のこもった目だ。水の精にばかり光が当たり、かんじんのヒュラスの影が薄いのも、面白い。彼女たちは、この男をひきずりこんで、さて、どう料理するのだろう。水の精族の繁栄のために、種馬のようにコキ使うのだろうか。それとも、水底の館に彫像のようにして飾っておくのだろうか。
十一枚の図版も、私の好みで選んだ。デュラックの描くアンデルセンの『人魚姫』は、「出かけていく女」。まだ尻尾のある小さな人魚姫が、ぬらぬらした海藻の間をすりぬけて、海の魔女のもとへと泳いでいく。アーサー・ラッカムの手になるド・ラ・モット・フケーの『ウンディーネ』は、メルヘンの世界に網をはる、おきゃんな水の精だ。まんまと網にかかって、夫となる騎士フルブラント。しかし、水のそばで妻をののしってはならないという掟を破ったために、彼女はライン河の底に帰ってしまう。男が人間の女性をめとると、ウンディーネは吹きあげる水柱となってあらわれ、騎士に死の接吻を与える。そして、クノップスの『眠るメドゥーサ』は、ひと目見た者に危害を加える、「何もしない」水の精。大きな鷲の羽根をつけ、いかめしい横顔をみせて眠っている。
インタビューなどで、当の著者はどのタイプなのですか? ときかれることがある。私は、男の人を好きになるとすぐ言っちゃう方だから、「出かけていく」かなぁ。でも、網をはってひたすら待つこともあるし、何もしないこともあるし、などと思い迷う。とにかく、「ひきずりこむ」だけは、絶対にない。今度生まれ変わったときには、そんな強烈な魅力を放つ女性になってみたいけれど。