波と戯れ、翻弄される兄と妹。
名作童話が抽出した人間の果てしないエゴイズム。
有島武郎が描いた、恐ろしい“水”
有島武郎の童話集「一房の葡萄」が、好きだ。タイトルにもなった「一房の葡萄」はあまりにも有名だが、たとえば、「溺れかけた兄妹」。
波の描写に凄みがある。「うねりといいますね、その波がうっていました。ちゃぷりちゃぷりと小さな波が波打ちぎわでくだけるのではなく、すこし沖の方に細長い小山のような波がきて、それが陸の方を向いてだんだんおし寄せて来ると、やがてその小山のてっぺんがとがってきて、ざぶりと大きな音をたてて一度にくずれかかるのです」
土用波が打ち寄せる九月のはじめ、都会の海水浴客が帰ってしまった海で、「私」と妹は友達のMと波越し遊びに興ずる。波打ち際に立っていると、急な川の流れのように水がひき、どんどん砂が掘れていく。腰までつかるところでは、うねりが来るたびに身体がふわりと浮き上がり、とても高いところに来たような気分になった。
「あら大きな波が着てよ」という妹の声にふりむくと、これまでとはかけはなれて大きな波が両手をひろげるような格好で押し寄せてきた。波はみるみる大きくなって、てっぺんにはちらりちらりと大きなあわがくだけはじめた。
今のうちに波を越すといい、というMの忠告に従って、子供たちはうねりに乗る。しかし、いつものように足を底の砂におろそうとしても、ずぼりと水の中にもぐってしまう。
水の上に浮かびあがった子供たちの顔は真っ青で、飛びだしそうになっていた。Mは十四、「私」は十二、妹は十一。泳げるのはMだけで、「私」は横のしを少しとあお向けで浮くことをおぼえたばかり、妹は板をはなれて二、三間泳ぎはじめたばかりだった。「私」が泳ぎながらときどき顔をあげると、そのたびに妹は沖の方へとはなれていた。妹は、「にいさん来てよ……もうしずむ……苦しい」とよびかける。声をだすたびに水を飲むとみえて、苦しそうな顔をして「私」をにらむ。「幾度も妹のいる方へ泳いで行こうかと思いました。けれども私は悪い人間だったとみえて、こうなると命が助かりたかってのです」
妹のところに行っても、二人とも沖に流されるだけだ。それよりは漁師にでも助けを 求めた方がよい、と思った「私」は、必死で泳いだ。結局妹は、先に泳ぎついたMがつれてきた若い男に救助される。男の背にもたれている妹をみると、「私」はやもたてもたまらず飛んでいく。妹も夢中で飛んできたが、途中から兄をよけて砂山の方に駆け出した。妹が自分をうらんでいるのだと思った「私」は、この上なくさびしい気持ちになった。
理性で判断したことではあっても、本当にそれだけだったか。思いがけないところで、人間の果てしないエゴイズムを抽出するきっかけをつくった水こそが、恐ろしい。