女性の“神秘性”に説明をつけようとして
男は女に振りまわされ、やがては見失う。
“水”の絵を描く、満水子
『満水子』 が出版されたころ、 ある週刊誌に掲載された高樹のぶ子さんのインタビューがおもしろかった。
「私は、器によって形を変える水を女性の象徴としてとらえているんです。あなたによって変わってしまうかもしれない、という可能性こそが、女性のエロス。フレキシブルであることは自分がないということではないんです。男性にしてみたら、理解不可能なつかみどころのなさに、惹かれてしまうのだと思います」
女性があなたの色に染められたい、というのは、よくいわれることだ。しかし、どんな器にはいっていても水は水であるのと同じように、その女性の本質まで変わってしまうわけではないのだ。
あなた色に染められたい女性と、女性を自分色に染めたい男性は、出発点ではぴったり一致する。男性は、自分の器に女性がすんなりおさまってくれるのをみて、その女性をとじこめたつもりになっているだろう。しかし、別の器があらわれると、女性は男性の手をするりとすりぬけてその器にはいり、まったく別の形をとる。今、つかまえていたものは、いったい何だったのだろう? わけがわからなくなる。男性が惹かれる理解不可能なつかみどころのなさとは、そういうことを意味しているのではなかろうか。
『満水子』 のヒロイン、湯浅満水子は、京都生まれの画家である。短大在学中から絵を描きはじめ、二五歳のとき初の個展を開いた。以降、どの流派にも公募団体にも属さず、グループ展にも参加せず、個展のみを発表の場にしてきた。
女性としての満水子が水に象徴されているとすれば、満水子の描く絵は、逆に水の本質を象徴しているようだ。満水子の描くものは、一見きれいな水の絵で、プリンター・メーカーのテレビコマーシャルに出たこともあって、大衆に人気があり、絵もよく売れる。しかし、彼女の絵はその表面上のきれいさの奥に底知れぬ気味の悪いものを秘めていた。
満水子と恋に落ち、彼女に振りまわされつづけるのは、坂本というノンフィクション作家である。ある雑誌の取材を通じて満水子を知った坂本は、「私、人を死なせちゃったの」という謎のような言葉の意味を知るために、彼女の生まれ故郷をたずね、関係者に話をきく。それは、単なる取材の範疇を大きく超えていた。
坂本の執拗な追跡によって、満水子が水ばかり描く理由、彼女の絵の底にひそむ恐ろしいものの正体が次第に明らかにされていく。しかし、皮肉なことに、満水子を愛するがゆえの坂本の行動は、逆に彼から彼女を遠ざける結果となった。
女のつかみどころのなさ、神秘ゆえに心惹かれながら、男性の習性から説明のつかないものに説明をつけようとして、「満水子という川を遡上」し、結果的に彼女を見失ってしまう男。
もし坂本が満水子を自由な逃げ水のままにしておいたら、彼女はときどき彼のもとにもどってきて、彼の器にはいったかもしれないのに。