華麗にして波瀾万丈な生涯を追うとともに、日本のクラシック界の態度を批判する書。
成熟した大人の魅力をふりまいた名ピアニスト
石川康子「『原智恵子』優雅で感傷的な最終楽章」は、何年か前の「新潮45」で興味深く読んだが、昨年末に『原智恵子 伝説のピアニスト』として一冊にまとめられた。原さんが八六歳で亡くなったのは、それからまもなくだった。
原智恵子さんは、日本人ではじめてパリ音楽院を一等賞で卒業し、ショパン・コンクールに入賞した人だった。四四歳で名チェリストのガスパール・カサドと再婚、夫亡きあとはカサド・コンクールを創設し、多くの日本人留学生を支援するなど、民間大使のような役割を果たした人でもあった。しかし、日本では、 私の恩師の安川加壽子先生ほどには知られていないのではないだろうか?それはどうしてなのか。 『原智恵子 伝説のピアニスト』は、原さんの華麗にして波瀾万丈な生涯を追うとともに、日本のクラシック界の態度を批判する書でもある。実際にその世界に住んでいる私には、絶対に書けないことも書いてある。いや、私もそろそろ書かなければいけないんだな、と思わされた。
原さんは、私の父の世代にファンが多かった。私が小さいころ、父はよくラジオの番組をオープン・リールのテープに録音していたが、その中で印象に残っているのは、一九五八年、原さんが日本を去る前に放送されたクープランのクラブサン曲だった。あまり、日本の楽壇とうまくいっていないようだ、という話は、父からきかされていた。実際には、カサドと結婚するためにイタリアにわたるのだから、故国を追われるわけではないのに、いいしれぬ哀しみが伝わってくるような演奏で、子供ごころに深い印象をきざまれた。
原智恵子さんは、安川加壽子先生とは全くタイプの違うピアニストだった。いつまでも少女のような雰囲気を残した安川先生に対して、成熟した大人の魅力をふりまいた原さん。演奏ぶりも濃密なもので、とくに関西方面で絶大な人気を誇ったという。ショパン・コンクールでも聴衆賞を獲得した原さんは、聴衆の心をつかむすべをこころえていた。たとえば、アンコールのとき聴衆の前にすすみ出て、リクエストしてくださった曲は何でも弾きましょう、と申し出る。こんなパフォーマンス、今の演奏家で誰ができるだろう。
原さんは一九七四年のある雑誌のインタビューで、イタリアの東洋学者を例にとり、次のように語っている。その学者は、三〇年も日本語を勉強し、難しい漢字も書けるのに、話をするときにテニヲハがおかしくなる。日本人の弾くピアノも、技術的には驚異的に進歩したが、知らず知らずにこうした文法上の誤りをおかしている可能性があるのではないだろうか、と。日本にいると、テニヲハのおかしなピアノばかりなのでそれと気づかないが、ヨーロッパに身を置く原さんには、それが見えるのだ。どうして原智恵子さんの貴重な視点を日本のピアノ界が活かせなかったのか、私はそのことが悔しくてならない。