【書評】沓掛良彦 著「エロスの祭司─評伝ピエール・ルイス」(文学界 2003年6月号)

一八七〇年に生まれ、一九二五年に没したフランスの詩人・小説家ピエール・ルイス初の本格的な評伝である。

表紙には、ルイス自身の撮影した写真が使われている。全裸の女がうつぶせに寝て尻だけ突き出しているところを上から撮った構図である。 見ようによっては、エレクトしたペニスにも見えるところが面白いし、本書の内容を象徴してもいる。

カメラマニアのルイスは、関係した女性たちのあらゆる姿態の写真を撮り、それらは死後ポルノ写真として出回った。 本文から察するに、この写真のモデルは、高踏派の大詩人エレディアの次女マリーだろう。永井荷風の愛した詩人、アンリ・ド・レニエの妻にして閨秀作家ジェラール・ドゥーヴィル。ルイスは、レニエとマリーを争って破れたものの、彼女と密通して一子をなし、エレディアの三女と結婚したのちも関係をつづけた。この方面は、ドミニク・ボナ『黒い瞳のエロス』(川瀬武夫・北村喜久子訳)に詳しい。

ルイス自身の作品で今日そう苦労せずに読めるのは、鈴木信太郎訳の『ビリチスの歌』、著者訳による『アフロディテ』、生田耕作訳『女と人形』ぐらいなものだろうか。

彼の名は、仏文関係者の間では、主に世紀末のコーディネーターとして知られているだろう。リセの同級生ジッドと親交をむすび、ジッドとヴァレリーの歴史的邂逅を演出し、ヴァレリーをマラルメにひきあわせた人物。彼は作曲家ドビュッシーの友人でもあり、多くの共同制作の計画から、歌曲集『ビリティスの歌』が生まれた。四人の友情模様はゴードン・ミラン『ピエール・ルイス、または友情崇拝』で紹介されているが、邦訳がない。

・・・と、対象の概要を紹介するだけでも、これだけの字数を費やさねばならなかったのだから、著者の苦労のほどもしのばれる。とにかく、ルイスの活動、交遊関係が多岐にわたっている上に、登場する名前の多くが、日本の読者にはなじみの薄いものなのだ。

なじみがないといえば、「エロス」という概念もそうだ。タイトルが『エロスの祭司』、文中でも、ルイスの枕詞のように「エロスの魔」という表現が頻出するが、読みすすむうちに、彼にとってのエロスは、どろどろした日本的隠微とは無縁なことがわかるだろう。

ルイスは精力絶倫で、若いときは一年で八百人、生涯で二千五百人の女と関係したと豪語している。記録魔の彼は、それぞれの詳細な描写に写真をつけ、「私と寝た女たちリスト」として残したというから、これは事実だろう。ところが、見た目の彼は、ワイルドが「男にはしては美しすぎる」と叫び、彼の愛人ではないかと疑われたほどのやさ男だった。

小説や詩も、性愛に関するものがテーマとなっている。しかし、作品のたたずまいは、彼の外見そっくりだ。繊細にして美妙、限りない透明感に満ちている。一八九六年に『アフロディテ』が出たとき、「多くの批評家や読者が、この小説のうちに快楽主義と、エロティシズムと、あぶな絵的なものしか読み取らなかったのに対して、詩人マラルメはこれを、高い知性に支えられた、純粋で高度に芸術的な作品と見なして称賛した」。

『女と人形』は一九一〇年になって戯曲化され、アントワーヌ劇場で上演されたが、初演を観たヴァレリーはルイスへの手紙で、「結局のところ、僕の気づいたところは、用語の赤裸々さと明確さ、性的な場面の明快さという点で、これはあちこちで演じられているあらゆるものよりも、はるかに《際どく》ないということなのだ。ここには猥褻さの影はない。というのは、他でもなく、猥褻な人間を作り出すのは、混濁と曖昧さだからね。これはまさに純粋状態における雄と雌との闘いの一挿話だ」と書き送っている。

古代ギリシャを讃美し、ギリシャ文学の翻訳で出発したルイスにとって、性愛は隠すべきものではなかった。彼自身、『アフロディテ』の序文で、「ギリシア人は、イスラエルの伝統がキリスト教の教義とともにわれわれの間にもたらした、淫らさとかふしだらという観念を愛とむすびつけて考えるようなことは決してなかった」と書いている。

もっとも、著者によれば、ルイスの憧れたギリシアは「アテナイの文化に代表されるような純ギリシア」ではなく、「エジプトの土着文化とギリシア文化が混淆したアレクサンドリアであり、メレアグロスやルキアノスに代表されるギリシア化した東方世界だった」というが。三部にわかれた『ビリティスの歌』に、純ギリシア的世界から東方的官能の世界への移り変わりを見た分析は、ギリシア古典の碩学である著者ならではの視点だ。

一年間に五万部売れたという『アフロディテ』で一躍流行作家になったルイスは、かえって商業主義への嫌悪感をつのらせ、一九〇一年の『ポゾール王の冒険』を最後に四分の一世紀にわたる隠遁生活にはいってしまう。「ルイスがどうやって生計を立てているのかは謎だ」とヴァレリーが言った通りの貧窮生活、押し寄せる債権者。緑内障、肺気腫、リウマチ、糖尿病を患いながら、一日平均三本のワイン、シャンパン二本、マリアニワイン一本、六十本以上のタバコを欠かさず、モルヒネとコカインを常用し、女漁りもやまず、死の六日後に子供(本当にルイスの子かどうかはわからないが)が生まれている。

「これで五十四歳まで生きたのがむしろ不思議なくらいである」。花形文学者時代にはいささかそぐわなかった著者の文体が、晩年のルイスにはフィットする。

この間、フランス十七世紀の古典劇の研究に熱中し、一九一九年に「コルネイユは『アンフィトリオン』の作者か?」という論文を書いたというエピソードは、興味深い。

「モーツァルト愛好家が数ある音楽家の作品の中でモーツァルトの曲を決して聞き誤ることがないように、コルネイユの詩句ならば、たとえ十二音綴詩句の半行なりとも、たちどころにそれと識別できるまでになっていた」ルイスは、モリエール『アンフィトリオン』の一節がコルネイユの詩句に酷似していることに気づいたのだった。
この「途方もない」学説は専門家からの猛反発を受け、「ピエール・ルイスは気が狂った」とまで言われたが、にもかかわらず、誰一人として、モリエールの作品はすべて彼の筆になるものだということを、積極的に証明しようとはしなかったという。

死の前年、コカイン中毒で痴呆症状を示し、ほぼ完全に失明し、「完全な廃人」に見えたころに書かれた最後の詩篇は、かつての彫琢された純度の高い詩にはほど遠いが、なおも「詩法や韻律に乱れを見せず、詩がきちんとした形をなしている」ことに著者は驚く。

ルイスがついに息絶えた一九二五年、ヴァレリーはアカデミー入りを果たし、ジイドは『贋金つくり』を発表し、作家としての名声が高まった。彼ら二人に比べてルイスはあまりに不当に忘れられ、軽視されていないか、ルイスもまた、彼らの何分の一かの敬意は払われてもいいはずだ、という著者の思いは、本書によって十分に達せられたといえよう。

なお、ルイスの葬式にドビュッシーが姿を見せなかったとあるが、一九一八年に没したドビュッシーは葬式に出られるわけはない。 ルイスが妊娠したマリーを置いて旅に出るあたりも、年代的に混乱がみられる。「憑かれたように一気呵成に書き上げた」五百三十六ページで、そのエネルギーには敬服するものの、待望の書であっただけに少し残念な気がした。

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