【特集・ピアノ音楽の潮流】「近代のピアノ音楽」(レコード芸術 2003年6月号)

青柳いづみこ、ピアニストたちのアプローチを語る

テーマ曲ドビュッシー:前奏曲集第1巻

まずドビュッシーのピアノ曲での《前奏曲集第1巻》の位置を簡単にお話しましょう。1909年12月~10年2月にかけて完成された作品ですが、一部は管弦楽のための《映像》の「イベリア」作曲帳(1907~08)でスケッチされています。作曲家としてのドビュッシーの大きな目的は、オペラを書くことだったんですね。初期のピアノ曲は、生活費稼ぎのための「わかりやすい曲」でした。02年に《ペレアスとメリザンド》が初演されると、03年の《版画》でようやく独自のピアノ書法が提示され、04年の《喜びの島》、05年の《映像》第1集、07年の第2集と、中期の傑作が続きます。《前奏曲集第1巻》でオーソドックスな書法の時代が終わり、13年に出版された《前奏曲集第2巻》では20世紀音楽に通じる前衛的な書法になり15年の《12の練習曲》など後期スタイルに向かうわけです。

ドビュッシーにフィットする精神は、明るくて暗くて、温かくて冷たくて、健康で不健康で、真面目でひょうきんで、いい人で悪い人で、即興的で構築的、美食趣味で禁欲的で、というパラドックスに満ちたものです。何といっても、彼は多重人格でしたから。

ミシェル・ベロフ

まずベロフは透明度抜群です。ドビュッシーの書法は、いくつもの層に分かれていて、とてもオーケストラ的です。それぞれの層に応じた表現が必要になると思いますが、ベロフは楽譜をすごく立体的に読む人ですね。たとえばポール・クロスリーの場合、縦の線の時間をずらして処理するようなところがありますが、ベロフは同時に弾いていても分離して聞こえる。ペダルが独特で、響きの中で各層が透けて見える感じ。知的なアプローチですから、後期のスタイルになるほど合うと思います。それからもうひとつ、ベロフの音楽は瞑想的で、とても“息”が長い。精緻な演奏なのに、つかみが大きい。そして、暗い。これも特徴でしょう(笑)。洒脱さや即興性はないですが、とても芸術的なCDだと思いますね。

マウリツィオ・ポリーニ

ドビュッシーの音楽は、調性感をわざとぼかしたり、いわゆる機能和声音楽から遠ざかろうとしています。ところが、ポリーニが弾くと、和声がちゃんと「機能」しているように聴こえるのが面白い。メロディ・メイキングも古典的で、旋律がどこからきてどこへ行くのか、どこでドビュッシーらしく尻きれとんぼになるか、和声の進行もどこで中断されるのかがはっきりわかる。曲に内在するエネルギーがどこで発生して、どのようにクライマックスに至るかも明快。ポリーニが楽譜を読むとこうなるのだろうと思いますね。

いかにもポリーニらしいのは、全12曲で起承転結があること。曲間まできちんと計算しているのがわかります。これはすごい構成力ですね。難をいえば、いい人すぎるというか(笑)。ボードレール『悪の華』の詩にもとづく〈音と香り……〉とか、頽発的な魅力はあんまり。スペインの“毒”を盛り込んだ〈とだえたセレナーデ〉も、ちょっと立派すぎる?でも、〈西風のみたもの〉など本当にダイナミックで、音楽に重量感、奥行きがあります。音はベルカントでよく歌うし、録音も含めて完成度の高いディスクです。

サンソン・フランソワ

ポリーニとは対照的で即興性に満ちた演奏です。おそらくテイクワンでしょう。ウソばっかり弾いてる(笑)。ラヴェルがおハコと言われているようですが、ラヴェルはもっと精密に弾いて欲しいんです。フランソワのドビュッシーは、本当に“天然”で、お師匠さんのコルトーが演出過剰に聞こえるくらい。〈雪の上の足跡〉など、つかまるものが何にもなくなっちゃった人のいいしれない虚無感がよく出ています。最後の諦観のメロディーは、音も歌いかたも本当に美しい。思わずカウンセリングしたくなっちゃいますけど。

ドビュッシーの音楽は、“言葉では表現できない何か”、私は“想念”と呼んでいますが、それがさまざまに変化したり爆発したり、綾なすさまに音という形を与えたようなもの。フランソワは完全にシンクロして入り込んでいます。〈アナカプリの丘〉のナポリ民謡とか、ラヴェルではちょっと気になる独特の酔っぱらったようなリズムが、ドビュッシーでは生きている。真・善・美ではなく、デカダンの音楽。いいですねぇ。

アルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリ

ミケランジェリのドビュッシーで私がすばらしいと思うのは、《映像1・2集》です。マニエリストの面目躍如で、耽美的なところがたまらない。《前奏曲集第1巻》は世評の高いディスクですが、私にはあまりフィットしません。音響的な色彩感は抜群ですが、音楽的にはもう少しいろんな色が欲しい。〈パック〉は重すぎて空を飛べそうにないし、〈ミンストレル〉はヴォードヴィルのショー音楽のはずなのにニコリともしないし……。ドビュッシーの音楽は、平行移動する和音塊、響きの帯がそのまま横に動いていくようなところがあるのですが、ミケランジェリはあくまでも旋律対和声というアプローチで、ときどき上のメロディをずらして歌うのも、少し違うなと思います。ドビュッシーは、「私の作品を弾くには、名ピアニストの小指はいらない」と言っていたのですが。

アルフレッド・コルトー

親しみやすいドビュッシー。でも、個人的には、もう少し抑制したアプローチの方が好きです。「ものごとの半分だけ言って、あとは聴き手の想像力に接ぎ木させる」というのが、ドビュッシーのモットーでした。それはまた、言葉から意味をそぎ落としてどんどん抽象的にしていったマラルメの精神でもあったんですね。でも、コルトーはとても気持ちが開いていて、全部歌い上げてしまう。〈雪の上の足跡〉など、人前で「ああ、悲しい!」と胸をたたく感じ?〈パックの踊り〉は、ステキですね。軽やかなタッチ、コケットリーが、いたずら好きだが基本的に愛されているパックにぴったり。〈ミンストレル〉も、無声映画の伴奏音楽のようで、古きよき時代の香りが漂っています。

クラウディオ・アウラ

専門家が評価するCDでしょう。たっぷり水をふくんだ和音、見事に鳴りきったトレモロはさすが!楽器が本当の意味でうまく操れる人ですね。〈音と香り……〉など、暗闇にほのかに光る音で、とてもいい雰囲気。何も特別なことはやらないが、音楽のめざすところに沿って、けだるさ、密やかさがよく表現されています。縦の線と横の線、起承転結、ダイナミクス。すべてにバランスがいい。無駄なルバートはないけれど、ごく自然に揺れている。各層の色分けもきれいで、細かい音もそろっている。即興性もあるけれど行きすぎないし、我を忘れそうになっても戻ってくるし、いろんな点で感心してしまいます。

ジャック・フェヴリエ

ラヴェルの同級生の息子で、《左手のための協奏曲》を初演した人。意外に良くて驚きました。同じザッハリヒなアプローチなら、ギーゼキングよりフェヴリエの方が好ましいと思います。音の粒立ちがよく、そっけなくて、ある種の無表情な魅力があります。ファンタジー、ポエジーとは対極にあるのかもしれないけれど、フランス人は、自分たちの文化のいちばんの特徴はクラルテ――明晰さにあると主張しています。その意味では、いかにもフランスらしい、主知的でテクスチュアがよく見える演奏でした。(談)

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