【巻末エッセイ】レーモン・ルーセル「ロクス・ソルス」岡谷公二訳(平凡社ライブラリー)

「ルーセルと音楽」

「レーモン・ルーセルは音楽をやっていて、ピアノを弾き、歌も歌いました」と、ミシェル・レリスは語っている。「父も歌が大好きで、ルーセルが伴奏することもありました。二人は順番に歌っていました」(『レーモン・ルーセルについての対話』)

レリスとルーセル。二十四歳違いのこの二人は、フランス語の綴りでは全然違うのに、日本語にするとアナグラムっぽくておかしい。二人の父親が上司と部下の関係だったことはよく知られている。ルーセルの父は息子が十七歳のとき死去したため、レリスの父が財産管理の相談役をつとめた。若いころはオペラ歌手志望だった彼は自宅でしばしば音楽夜会を開き、ルーセルもその常連だった。

レリス家でのルーセルは、シューマンやシューベルトを弾き、「糸のような細い声で」レイナルド・アーンやオギュスタス・オルメス、ポール・デルメなどの歌曲やシャンソンを弾き語りした。また、マスネーの『マノン』『ウェルテル』、オッフェンバックの『ホフマン物語』『天国と地獄』、プッチーニの『蝶々夫人』、レーエルの『サランボー』、ワーグナーの『ローエングリン』『タンホイザー』の全曲について、すべての役をピアノを弾きながら歌ったというから、本当ならすごい。プロなみの聴覚能力である。

ルーセルを音楽の道に引き入れたのは、母親である。オペラ座の常連で、自宅に沢山の歌手を招くなど、音楽の庇護者的存在。けっこうステージ・ママだった可能性もある。

ルーセルは一八九〇年、十三歳でパリ音楽院のピアノ科を受験している。当時の音楽院は本科の前に予備科を設けていたが、どうやらいきなり本科にチャレンジしたらしい。それも、リセ(高等中学)をやめて退路を絶っての受験だったが、不合格で聴講生扱い。番号でしか発表しない芸大と違って、パリ音楽院はすべての受験生の成績を貼り出す。母親はきっと悔しがったことだろう。翌年ルーセルは予備科に合格しているが、通った形跡はない。

九三年秋、十六歳になったルーセルは、ドビュッシーの作曲の先生だったギローの『アレグロ』を弾き、見事審査員の「満場一致」で合格、ディエメのクラスに入学している。
*ちなみに、「満場一致」とは、審査員全員が合格を承認した受験生にのみ与えられるもので、普通は一人か二人ぐらいしかいない。後の名ピアニスト、アルフレッド・コルトーや安川加壽子の師ラザール・レヴィも同期で入学しているのだから、ルーセル母子の有頂天の様子も想像できよう。「満場一致」の快感は最後までルーセルにとりついて離れなかった。

同じころ、ルーセルの二歳年上の作曲家モーリス・ラヴェルもパリ音楽院のピアノ科で学んでいた。ラヴェルが登録したのはシャルル・ド・ベリオのクラスで、同級生にスペインの名ピアニスト、リカルド・ヴィニェスがいた。

実は、このルーセルとラヴェルが、妙に似たところがあり、気になって仕方ないのである。二人とママの坊や。華奢で優雅なダンディで、たぶん「男色者」。規則マニアで細かいことに神経質で、子供の人形芝居やおもちゃが大好きで、ごく親しい友人以外には王侯のように慇懃無礼。そして、機械好きの「独身者」。二人とも、熱に浮かされたようにロマンティックなピアノを弾くコルトーとは正反対の資質の持ち主だった。

パリ音楽院一年目、ルーセルは自作の詩に合わせて歌曲を書こうとしたが、言葉はすぐに出てくるものの、メロディの方がさっぱり思い浮かばない。密かに作曲家を断念した。いっぽうラヴェルは、ピアノ曲『グロテスクなセレナーデ』や歌曲『恋に死せる女王のためのバラード』を書いている。二人の分かれ道である。

パリ音楽院では、一等賞(複数)を受けた者だけが卒業でき、三年つづけて同じ試験を受けることはできないという規則がある。一八九五年七月、ピアノの卒業コンクールで失敗したラヴェルは、音楽院から追い出されてしまった。このときショパンの『幻想曲』を弾いたルーセルも、次点第二席にとどまっている。コルトーの方は翌年七月、一等賞を得て卒業。晴れてコンサート・ピアニストへの道を歩むことになった。

処女作の韻文小説『代役』を執筆中のルーセルが、有名な「栄光の感覚」を味わったのも、同じ九六年である。精神科医のピエール・ジャネの記録によれば、「彼は昼も夜もほとんど絶え間なく仕事をし、少しも疲れた感じがしなかった。彼は自分が少しずつ異様な熱狂に浸されてゆくのを感じた」。

ルーセルは、同じような啓示がなかったかどうかサン=サーンスに問い合わせたというが、こういう、何かにとり憑かれるような感覚は、音楽家には少しも珍しくない。ブラームスは、恍惚状態で睡眠と覚醒の間をさまよっているときに着想が湧いてきた、と証言しているし、リヒャルト・シュトラウスは、霊感に満たされたとき、無限で永遠のエネルギーの源を手にしていると感じたという。ウィーンの名ピアニスト、グルダも、演奏中に突然何かが舞い降りてきて、「それ」に弾かされたという経験をしている。無論、詩人や小説家だって「書いているものが光に包まれている」感覚を味わうことがあるだろうが。

翌九七年六月、『代役』が自費出版されたとき、ルーセルが「大いなる感動を抱いて」通りに出たのに、誰もふり返らないのでがっかりしたという話は、身につまされる。表現者はたぶん、誰でも一度はそういう経験をしているのではないかと思うからだ。

一八九八年一月、パリ音楽院に戻ったラヴェルが作曲家としてデビューした年、ルーセルの方はまだピアノ科にいた。六月の試験ではショパンの『舟歌』とバラキレフの『イスラメイ』を弾き、ディエメの覚え書きに「非常に傑出したピアニスト的長所随所にあり、飛躍的進歩をとげた」と記されている。

『イスラメイ』は、ラヴェルが『スカルボ』を作曲したときも参考にした曲で、素早い連打音を盛り込んだウルトラEの曲である。ルーセルは「精緻」な演奏に特徴があり、「練習曲」が出てくるとがぜん勢いづく感がある。二〇歳の試験でルービュンシュタイン『練習曲ハ短調』を弾いたときなど、「全く正確な機械仕掛け」という、いかにもありそうな先生のコメントが残っている。

しかし、今度こそ、と臨んだ九八年七月の卒業コンクールも、選外一等どまりだった。弾いたのは、ショパンの『スケルツォ第一番』とベートーヴェン『ソナタハ長調』のフィナーレ(ハ長調のソナタには第三番と『ワルトシュタイン』があるが、ルーセルの精緻なピアニズムからすれば、ミケランジェリも好んで弾いた三番の方が合っているような気がする)。審査員長のデュボアは、「かなり良質な点随所にあり。ときとして硬質な点あり。かなりうまく歌い上げている」が、首席には不十分と判定した。

一等賞を取るつもりでいたルーセルはとんでもなく腹を立てたらしいが、講評を読む限り、プロになるためには表現やテクニックに固さが残ったようだ。もっとも、ポリーニが出現し、主知的・技巧主義的な演奏が主流になった時代なら、よい点がもらえたかもしれないが。

ピアニストとしては挫折したけれども、音楽はルーセルに深い影響を与えた。それは、作品の中に音楽に関するエピソードが出てくるというような表面的なことだけではなく、また、フランス象徴派の詩人たち、たとえばマラルメが「音楽をつくった」というような意味とも違って、もう少し本質的なところでかかわっていたように思う。

彼の手法の謎解き『私は如何にしてある種の本を書いたか』を読んだとき、私は何となく楽曲分析を読むような気分を味わったのである。

たとえば、billard(玉撞き)とpillard(盗賊)という文字ひとつ違うだけで意味ががらりと変わる単語を思いつく。次に、それらの単語を最後に置く二つの文章を考える。文章を構成するそれぞれの単語は、すべて読み替えされて、別の意味に使われている。さらに、二つの文章のうち一つで始まり、もうひとつで終わる物語を考える。物語の展開には、二つの文章で使われた単語が素材として使われる。

ルーセルのこうした発想がどんなに作曲家に近いか、例としてベートーヴェン『熱情ソナタ』の第一楽章を出してみよう。

ソナタ形式には男性的な第一楽章と女性的な第二楽章という二つの要素がある。『熱情』の第一主題は「ハ、変イ、ヘ」という短調の下降形で始まる。第二主題はその読み替えで、「変イ」を「イ」に変えて長調にし、音を転回させて「イ、ハ、ヘ」という上行形にしている。これが、提示部では三度移調されて、再現部では原調のまま出てくる。しかも、「billard」と「pillard」と同じように、リズムは第一主題と共通している。第二主題につづく激しい経過走句も、第一主題の順序を入れ替えた音形「ヘ、ハ、変イ」が使われている。やはり、提示部では三度移調されて、再現部では原調で。第三楽章フィナーレの第一主題も、第一楽章の第一主題前半の新たな読み替え「ハ、ヘ、変イ」をさまざまに展開させたものと読むことができる。

勿論、個々のケースはぴったり当てはまるものではないし、そもそも作曲という作業がモティーフの際限のない解体と連結からなっているのだから、何もベートーヴェンに限ったことではないのだけれど、アプローチの類似はわかっていただけると思う。

ルーセルは自分の特殊な手法について、「この方法は、要するに脚韻に近い。いずれの場合においても、音声上の組合せから思いがけない着想が生まれる。これは、本質上、詩の方法である」と書いている。
しかし、ミシェル・レリスはこう指摘する。「脚韻ってのは、半分語呂あわせじゃありませんか?ただ、違うのは、脚韻はすぐわかるけれど、彼の言葉遊びはそうじゃないってことです」

この、「意味が通じない」ということがまた、ルーセルの作品を限りなく音楽に近づける。

最後に、『ロクス・ソルス』に出てくる「音楽」について、ひとこと。ルーセルの音楽上の趣味はとても古くさく後ろ向きで、せっかく同時期に音楽院にいたのにラヴェルと親交を結んだ形跡はないし、アイドルは旧時代の巨匠マスネーだったというが、『ロクス・ソルス』で奏される「音楽」はとんでもなく前衛的で、そのミスマッチがほほえましい。

たとえば、女占い師フェリシテのタロットカードから銀鈴のような音楽が聞こえてくるというくだり。一枚目のカードから即興的なアダシオがゆるやかに流れると、二枚目から聞こえる別の軽快な曲がそれに重なり、次々と並べられたカードが独立したオーケストラのように緩急、明暗とりどりのシンフォニーを「同時」に奏でる情景は、想像するだにわくわくする。

「今やフェリシテによってすべて並べつくされたタロットカードは、水晶のような魅惑的な音をあらそって聞かせ、大がかりでちぐはぐなコンサートを開いていた」

これはすごい、まるでルチャーノ・ベリオ(一九二四~二〇〇三)の「ヘテログロシア(複数異言語混交状況)」作品『シンフォニア』(一九六八)ではないか。ここでは、マーラーの『復活』をベースに、『ブランデンブルク』やら『幻想』やら『海』やら『薔薇の騎士』やら『プリ・スロン・プリ』やらの断片がコラージュされているのだ。

『ロクス・ソルス』が書かれたのは一九一四年。前年にストラヴィンスキー『春の祭典』やドビュッシー『遊戯』が初演され、二十世紀音楽がまだやっと始まったばかりというのに、作中の「音楽」は、音楽史をぽーんと飛び越えてしまっている。

きらめく水、アカ=ミカンスの水槽にはいった踊り子フォスティーヌの豊かな髪から発する音楽も、とっても神秘的でステキだ。

「髪の一本一本が、弦のように振動し、フォスティーヌが一寸でも動くと、全体はエオリアン・ハープさながら、無限の変化に富んだ一連の音を長々とひびき渡らせた。絹のように細い金髪が、その長さに従って、異なった音を発し、音域は、三オクターヴ以上にわたった」

こちらはもう、まんまサルヴァトーレ・シャリーノ(一九四七~)の世界ですね。「光と影の繊細な移ろい」を演出するパレルモ生まれの現代作曲家。私が聴いた『六つの小四重奏曲』(一九六七~九二)は、ヴァイオリンの弓をわざと縦方向にずらせたり、虫の羽音のように震わせたり、ハーモニックスのアルペジオがヒーヒー鳴ったり、サイレンのようなグリッサンドがとびかったり、何とも摩訶不思議な音響小宇宙だった。

誰か、『ロクスソルス』の発想で作曲する人はいないだろうか。もっとも、当方が知らないだけで、もうすでに試みられているかもしれないけれども。

2004年7月19日 の記事一覧>>

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