「ぼくは作曲家になりたかった」(岩波「図書」2006年5月号)

カナダの奇才ピアニスト、グレン・グールド(一九三二~八二)の『二十七歳の記憶』は美しい映像作品だ。
少年の面影を残したグールドが、トロント北百五十キロにあるシムコー湖畔の別荘でピアノを弾き、歌い、雄大な自然の中で愛犬バンクォーと散歩し、瞑想にふける。

それにしても、何というしなやかな指さばきだろう。バッハを弾くグールドは、驚異的なポリフォニーの弾きわけ、信じられないようなドライブ感を見せつける。グールドほど、技巧上のいわゆる「容易性」を持っていたピアニストはなかった、とアメリカの同業者たちは口をそろえて言っている。彼は、「自分の知るどんな作品の、どんなに難しい、やっかいなパッセージでも、ウォーミング・アップなしに演奏できる能力」を誇っていた。

演奏家は毎日八時間の練習をこなし、一日弾かないと自分にわかり、二日弾かないと周囲の者にわかり、三日弾かないと聴衆にわかる、という通説は、彼には通用しなかった。「いちばん調子がいいのは、まさに久しぶりに弾くそのときです」とグールドは語る。

「セッションの二週間前になると、一日に二時間は練習するかもしれません。それでも私にとってはかなりの練習時間なのです。(中略)実際の練習はいつも頭の中でおこなっています」(『グレン・グールド発言集』)

『二十七歳の記憶』でも、このことが証明づけられる。ふと難所で止まることがあっても、普通のピアニストのように何度もくり返し練習するかわりに立ち上がり、窓の外の風景を見ながらひとしきり頭の中で音楽を反芻したあと、また楽器の前に戻る。そして難所を苦もなく通り抜ける。

このころ、彼はすでにバッハ『ゴルトベルク変奏曲』(一九五六)のディスクで世界的な有名人だった。ステージ活動もつづけていたが、演奏旅行には耐えられず、そのたびに消耗した。あらゆることが気になる。機内の暖房、旅行先の食べ物、ホールのすきま風。「三十五歳になるまでにお金をためて引退し、作曲活動に専念したい」と宣言していた。

グールドの自身著作も、研究書もあまた出ているが、グールドに関してはこのひとことがすべてだと思う。

「ぼくは作曲家になりたかった」

じゃあ、どうしてならなかったの?

「ぼくの書く曲は音が古いって言われるんだ。七十年ぐらい、いや五十年かな」

音が古いとはどういうことか? もう誰かが使ったサウンドで書いていること。二十世紀前半では最先端だった無調や十二音技法に拠らず、長調とか短調とか、調性の範囲内で書いていること。

「多数派の意見によれば、調性の時代は終わったそうだ。でも、ぼくが求めるスタイルは違う」。

十九世紀末にデビューした作曲家ドビュッシーは、曲の中に不協和音がまざりすぎていると非難された。ところが、二十世紀も後半にはいると、不協和音で書かれていればいるほど評価が高くなった。ブーレーズが、十二音技法をさらにおしすすめた「トータル・セリエリズム」に突入したのが五二年。シュトックハウゼンが「不確定性の原理」を導入したのが五六年。作曲界はアイディア合戦になり、他人と違う試みをやってさえいれば認められた。逆を返せば、音が古ければそれだけでオミットされてしまった。

ここに、グールドの作品一となる『弦楽四重奏曲』のディスクがある。五三年四月から五五年十月にかけて書かれ、六〇年三月、つまり、フィルム『二十七歳の記憶』の翌年に録音された。「もちろん、調性的な語法を用いていて、一八九〇年に書かれたどんな曲にも劣らず保守的ですし、その時代のほとんどどんな作曲家にも書けたでしょう」(一九五九年十月のインタビュー)とグールド自身語っている通り、リヒャルト・シュトラウスなど後期ロマン派からの影響が色濃く反映された作品である。

私が思い出すのは、ダニエル・バレンボイムが語ったフルトヴェングラーについてのコメントだ。二〇〇五年に来日したバレンボイムは、銀座ヤマハ店でおこなわれたインタビューで、しきりにフルトヴェングラーの作品について話していた。

「フルトヴェングラーは指揮する作曲家です」とバレンボイムは言う。「作曲する指揮者ではない」(ここの部分が重要だ)。

「すばらしい作曲家だが、五〇年前の音楽言語を使っているんです。一九四〇年代、ストラヴィンスキーやシェーンベルクが出てしまったあとに、調性を使って作曲している。彼のピアノ協奏曲や交響曲は一九三〇年~四〇年代に書かれているが、一八七〇~八〇年代に出ていればすばらしい名作だったでしょう」
グレン・グールドも、「ピアノを弾く作曲家」だったのだろう。

演奏家としてのグールドの成りたちは、通常のルートとはずいぶん違っている。一九三〇年代初頭生まれのピアニストというと、「ウィーンの三羽がらす」フリードリッヒ・グルダや、二十世紀音楽の推進者だったコンタルスキー兄弟が思い浮かぶ。グルダはジューネーヴ、コンタルスキー兄弟はミュンヘン・コンクールの優勝者だ。しかし、グールドは国際コンクールを通過してしていない。

一九五五年一月にニューヨーク・デビューを果たしたと言っても、場所はカーネギーホールではなくタウンホールで、客席はガラガラだった。それまでのグールトは、年間演奏会の回数が四回から八回ぐらいで、カナダの国内ピアニストにすぎなかった。そもそも、どうしてグールドが、ちゃんとした演奏旅行をはじめないうちにセンセーショナルなレコード・デビューをすることができたのか、不思議なのである。

その経緯は、グールドの友人でもあった精神科医オストウォルドが書いた『グレン・グールド伝』に詳しい。コロンビア・レコードの責任者オッペンハイムは、五〇年に白血病で亡くなったディヌ・リパッティにかわるピアニストを探していた。以前にグールドと共演したことのあるヴァイオリン奏者が、グールドのコンサートのことを教えた。

奇妙なプログラムだった。十七世紀の作曲家のオルガン曲、バッハのシンフォニアやパルティータ、ベートーヴェンのソナタ三十番。ロマン派と近代をとばして、いきなり新ウィーン楽派のウェーベルンとベルクの作品。一般の聴衆にとっては超前衛で、作曲の専門家にとっては時代遅れの微妙なスタンス。

若いピアニストの醸し出す「呪術的な雰囲気」に魅せられたオッペンハイムは、会場にほかのレコード会社が来ていないことを確認したあと、レコーディングを申しでた。

大手レコード会社が無名な音楽家の演奏を一度聴いただけで契約をむすぶのは、きわめて異例のことだったという。ここでグールドが提案したプログラムが、彼のその後を決定づけることになる。バッハの『ゴルトベルク変奏曲』は、当時は十八世紀の異物、博物館行きの作品とみなされていた。コロンビアの重役たちは翻意させようと試みたが、彼は頑として応じなかった。どちらが正しかったかは、歴史が証明する通りである。

『ゴルトベルク』の録音と、グールド自身の作品『弦楽四重奏曲』が完成するのが同じ年だったというのは興味深い。作曲家グールドに禍した五五年という年が、ピアニスト、グールドには幸いした。戦前の大物はほぼ引退し、戦中派は消耗し、後続はまだ育っていなかった。アシュケナージがショパン・コンクールで二位になり、病気療養していたミケランジェリがようやく活動を再開した年である。リヒテルのニューヨーク・デビューは五年後。まだ充分に席があいていた。

グールド自身、北米で成功する秘訣を熟知しており、セッションと宣伝のタイミングが絶妙で、刻々と変化する状況が「信じられないほど幸運に作用した」と語っている。

しかし、ここからが想定外だった。レコードがヒットした結果、グールドのもとには各国から出演依頼が舞い込み、ツアー演奏家の生活を強いられることになる。

ツアー演奏家というのは、「移動」と「くり返し」の二つの要素から成り立っている。シーズンはじめに何種類かのプログラムをつくってしまうと、それを一年中弾いている。もちろん、同じ土地では弾けないからあちこち旅行することになる。

ピアニストとしてのグールドが「容易性」に恵まれ、ひとつの曲をくり返し練習する必要がなかったことは前に書いた通りである。彼はまた、同じ曲を何回もくり返して演奏するのが嫌いだった。これは、創作家に特徴的なメンタリティのひとつのである。演奏家なら、くり返して弾くことによって演奏が煉れてくる、と喜ぶ。でも、創作家は一度名作をつくってしまったらくり返さない。くり返せないし、くり返すことを非難される。「ピアノを弾く作曲家」のグールドは、あくまでもクリエイターでありたいと願ったのだ。

といっても、彼がそれほどステージに追いまわされていたわけでもない。『ゴルトベルク変奏曲』がヒットした五六年で二十三回。一番多かった一九五九年ですら五十一回。国際的演奏家なら、よほど意識して減らさないとこの回数にはならないだろう。それでもグールトにとっては多すぎたし、絶え間ない圧迫感にさいなまれていた。

グールドは先天的に、沢山人の集まる場所が嫌いだった。聴衆とともに音楽をつくりあげるなどという気持ちは、彼にはさらさらなかった。一流の演奏家のステイタスとされる巨大なコンサート会場に集まる観客そのものを嫌ったのだ。「聴衆から本当の刺激を受けたことは一度もありません」と彼は言う。

グールドがステージ活動を停止するのは一九六四年のことだが、それ以前から、「コンサートホールという場にあっては、音楽はめったに人の心に届かないと彼はすでに感じていた」と、『グレン・グールド 孤独のアリア』の著者シュネデールは書いている。

「うとうとしている人々、終わったあとの食事を思い浮かべている人々、翌日になって演奏会に行ったと語るのが目的で来ている人々、彼らを除いてしまえば、ほとんど誰もいなくなる」

もし活動をレコードに限定するなら、演奏家自身が自分の身体を各国に運ぶかわりに、任意の一時期スタジオにこもり、ほんの数日間その曲を弾くだけで、演奏が勝手に各国に行ってくれるのだ。聴衆も、その場所、その時間に集まることができた不特定多数の、しばしば音楽に興味のない聴衆ではなく、グールドの演奏を聴きたいと思ってディスクを買った自発的な聴衆だけに限定される。しかも、その聴衆の聴き方によって、弾いているときの自分が左右されない。これはすばらしいことだとグールドは考えたわけだ。

「ピアノを弾く作曲家」ながら作曲で勝負できず、ツアー演奏家としても継続することができなかったグールドは、「作曲家のように活動するピアニスト」として再出発することになる。

おそらく、これが彼に残された唯一の選択肢だったのだろう。

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