「パリの芸術家たちとその出会い フォーレ、ドビュッシー、 サティー が集ったサロン」(2006年4月)

サロンとは客間のことです。ロマン派の時代、上流階級の人々はすぐれた芸術家を自宅に招き、公開に先立って作品を鑑賞したり、演奏を聴いたりしました。とりわけショパンにとって、貴族やブルジョワのサロンは仕事場でもありコンサート会場でもありました。ガブリエル・フォーレ(1845~1924)やクロード・ドビュッシー(1862~1918)の時代にも音楽・文芸サロンは大いに賑わいましたが、19世紀末からベル・エポックにかけてのサロンは、次第に、作品や演奏を売る商売の場から、異なるジャンルの出会いの場、前衛芸術の発祥の地へと移っていきます。

◆ハイ・ライフのサロン

19世紀のサロンは、主に上流階級の歌姫によって運営されていました。贅を凝らした客間、衣擦れの音、香水とおしろいの匂い。優雅で洗練された雰囲気をもっとも好んだのが、サロンの作曲家と呼ばれたフォーレでした。

ポーリーヌ・ヴィアルドー(1821~1910)は、ショパンにかわいがられたスペインの歌姫で、1840年から半世紀以上にわたって、ドゥエ街48番地でサロンを開いていました。ここには作曲家ばかりではなく文学者も出入りし、木曜日にパントマイムと詩の朗読の会、日曜日には音楽夜会が催されました。1872年、サン・サーンスの紹介で参加したフォーレは、気品あふれる老女となったジョルジュ・サンドの前で、サン・サーンスがロシアの文豪ツルゲーネフとパントマイムを演じるシーンを目撃しています。

フォーレの《バイオリン・ソナタ第1番》はポーリーヌの息子ポールに捧げられ、ポールのバイオリンとフォーレのピアノにより、ヴィアルドー家の別荘で初演されました。

のちにドビュッシーの二度めの妻となるエンマ・バルダック(1862~1934)も、当初はフォーレの庇護者でした。ボルドーのモイーズ家に生まれ、富裕な銀行家と結婚し、社交界の歌姫として活躍していた彼女は、1892~96年、ブージヴァルの田園風の家の離れをフォーレに提供し、フォーレはそこで歌曲集《優しき歌》を書きあげました。作品を献呈されたバルダック夫人は、公開に先立って内輪の会で初演しています。

フォーレはまた、1894~97年、愛称をドリーというバルダック夫人の娘の誕生日に捧げるため、ピアノ連弾組曲《ドリー》を作曲しました。この「ドリー」が後にドビュッシーの義理の娘になろうとは、当時は誰も考えなかったに違いありません。

彫刻家の妻サン・マルソー夫人(1850~1930)は、1870年から亡くなる前まで、マルゼルブ街100番地で最先端の音楽サロンを開いていました。やはりフォーレを支援していた夫人は、1883年ごろ、まだバイロイトに行ったことがないフォーレのために「謎々びっくりくじ」をつくって資金を集めています。

いつも作曲界の動向に気を配っていた夫人は、1894年2月、新進作曲家のドビュッシーを招き、彼の伴奏でカンタータ《選ばれた乙女》を歌ったり、作曲中の《牧神の午後への前奏曲》をピアノで弾いてもらっています。ドビュッシーはそのころ、《選ばれた乙女》を初演した歌姫と婚約中でしたが、ひと月後、別の女性と同棲していたことがわかって破談になってしまいます。スキャンダルはパリ社交界中に流れ、ドビュッシーの姿は夫人のサロンから消えました。

ドビュッシーの先輩作曲家エルネスト・ショーソン(1855~99)は富裕な銀行家の息子で、クールセル街22番地やマルヌ河畔のリュザンシーの別荘でサロンを開いていました。義弟が画家だったこともあり、客間はルノワール、ゴーガン、ルドン、ドガの絵で飾られ、画家・彫刻家や詩人から、シャブリエ、フランク、ダンディ、フォーレ、サティー、イザイ、コルトー、ティボーなどの音楽家まで、実に多彩な顔ぶれが集ったのです。

ドビュッシーも、1893~94年春までショーソン家に出入りしていました。ショーソン夫人とムソルグスキーの《ボリス・ゴドゥノフ》を四手連弾したり、別荘で野遊びする写真が残されています。しかし、歌姫との婚約が破棄された時点で、ドビュッシーはショーソンのサロンにも出入り差し止めになってしまったのでした。

◆19世紀末の文芸サロン

ハイ・ライフのサロンが香水に包まれていたとすれば、世紀末の文芸サロンには煙草と酒の匂いが充満していました。ドビュッシーは、こちらのほうが好みだったようです。

1881年末にロシュシュアール通り84番地に開店した文学キャバレ『黒猫』(85~97年はラヴァル街)には、「マッチを擦れば燃え上がりそうなほど」アルコールがしみこんだデカダン詩人たちが出入りし、バー・カウンターの横のピアノで弾き語りしたり、おどろおどろしい身振りで詩を詠んだりしていました。

最初のピアノ教師の息子にあたるシャンソン作曲家シャルル・ド・シヴリーの手びきで学生時代から『黒猫』に出入りしていたドビュッシーは、常連の詩人シャルル・クロやヴァンサン・イスパの詩で歌曲を書きましたし、『黒猫』のイラストレーター、アドルフ・ヴィレットはドビュッシーの歌曲《マンドリン》をしゃれた装丁で飾りました。

いっぽう、パリ音楽院を中退して1888年から『黒猫』でピアノを弾いていたサティーは、91年に経営者のサリとケンカして別の文学酒場『オーベルジュ・デュ・クルー』に移り、そこでドビュッシーと親交を結んでいます。

1889年にショセ・ダンタン11番地に開店した『独立芸術書房』が賑わうのは、5時から7時までの「アペリチフ」タイムでした。この書店は象徴派とオカルティストのたまり場で、長老格の詩人に加えてレニエ、ジッド、ピエール・ルイス、クローデルなど若い文学者、画家のルドンやロートレック、占星術師のエリー・スターも顔を出し、ドビュッシーも日課のようにやってきました。サティーをこの店に連れてきたのもドビュッシーです。

近年、『ダ・ヴィンチ・コード』でドビュッシーがさる秘密結社の総長にリストアップされていますが、根も葉もない話ではなく、オカルト関係の出席者によれば、ドビュッシーは「ヘルメス学に深く魅了され、その方面の書物もよく読んでいた」といいます。

『独立芸術書房』は、若い作家の本を次々と刊行したことでも知られています。ドビュッシー《夜想曲》のもとになったレニエ『古いロマネスクな詩』も、ドビュッシーの《選ばれた乙女》や《ボードレールの五つの詩》の楽譜もここから出版されています。

象徴派の詩人ステファヌ・マラルメ(1842~98)が、1874年夏から毎週火曜日にローマ街89番地で開いていた『火曜会』は、わずか10人程度で満員になる非商業主義なサロンでしたが、新時代を担う詩人たちが集い、いっしんにマラルメの言葉に耳を傾けました。円卓の中央には大きな煙草入れが置かれ、各自嗅ぎ煙草をつくっては飲んでいました。あんまり煙がもうもうなので、マラルメ夫人や令嬢は逃げ出してしまったといいます。時期ははっきりしませんが、ドビュッシーも音楽家としては唯一の列席者で、1893年にはマラルメの詩にヒントを得た《牧神の午後への前奏曲》を作曲しています。

◆20世紀初頭のメセナ

世紀末からベル・エポックにかけてのサロンのポイントは、香水でも煙草でもなく、ズバリ「お金」と「人脈」でした。世紀転換期のメセナとなる女性たちは、結婚で得た豊かな財力や人脈を新時代の芸術に投資し、ラヴェルやサティーは大いに恩恵にあずかりました。

プルースト『失われた時を求めて』のゲルマント公爵夫人のモデルの一人グレフュール伯爵夫人(1860~1952)は、1878年に財産家の夫と結婚して以来、文芸の庇護者として活躍した女性です。アストルグ街の広大な邸宅で開かれていたサロンは、シャブリエからストラヴィンスキーまで無名の前衛芸術家のメセナとして知られています。

夫人は、1890年代初め、国民音楽協会の改革に奔走するなど、音楽界の陰の立役者でもありました。リヒャルト・シュトラウス《サロメ》がドレスデンで初演されたことを知った夫人は、早速サロンでピアノによる私的上演を実現させ、シャトレ座でのパリ初演にこぎつけました。マーラー《交響曲第2番「復活」》のパリ初演にも尽力した夫人は、1910年4月、初演のために来仏したマーラーを招き、ドビュッシー夫妻をまじえて会食しています。もっとも、初演の際ドビュッシーは、第2楽章の途中で席を立ってしまうのですが。

ポリニャック大公妃(1865~1940)は、シンガー・ミシンの創立者の娘に生まれ、七月革命で退陣したシャルル十世の大臣の息子と結婚しました。莫大な資産に加えて貴族の身分を手に入れた大公妃は、1893年からコルタンベール街でサロンを開き、世紀末からベル・エポックにかけての音楽世界に君臨することになります。

前衛芸術に関心を寄せていた大公妃のサロンは、シャブリエからストラヴィンスキーまで、発表の機会に恵まれない「現代音楽」の初演の場として貴重でした。大公妃は1918年、サティーに交響的ドラマ《ソクラテス》の作曲を依頼しています。

ミシア・セール(1872~1950)は、雑誌『白評論』の主宰者ナタンソン、『ル・マタン』紙の支配人エドヴァールと、夫を替えるたびに文壇に人脈を増やしていきました。ディアギレフ率いるロシア・バレエ団に巨額の出資をしていたミシアはまた、ラヴェルの庇護者としても知られ、《ラ・ヴァルス》を献呈されています。
1905年、ラヴェルが四度目のローマ大賞に落選したとき、当時の夫エドヴァールの立場を利用して新聞にスキャンダル報道をしかけたのもミシアでした。彼女はラヴェルをなぐさめるために、異母弟にあたるシーパ・ゴデブスキ(1874~1937)夫妻を誘ってヨットに乗り、ドイツ=オランダ旅行をプレゼントしました。ゴデブスキ夫妻とも親しかったラヴェルは、子供たちのために《マ・メール・ロア》を作曲しています。

画家・舞台装置家で、のちに文豪ヴィクトール・ユゴーの曾孫ジャンと結婚するヴァランティーヌ・グロス(1887~1968)はコクトーや六人組と親しく、サティーを世に出すために尽力しました。1914年、音楽評論家ロラン・マニュエルの家で音楽喜劇《メデューサの罠》の試演に接し、すっかりサティー・ファンになったヴァランティーヌは、出版社を紹介し、アール・ヌーヴォーの画家の装画アルバム『スポーツと気晴らし』を刊行させています。

同じ年、詩人のジャン・コクトー(1889~1963)は、ヴァランティーヌと出かけたミシア・セールのサロンで、ピアニストのリカルド・ヴィニェスとサティーが連弾する《梨の形をした小品》をきき、サーカス形式で《真夏の夜の夢》を上演する計画を提案します。この計画から、オーケストラ曲《五つのしかめつら》が生まれました。

コクトーはロシア・バレエ団のディアギレフにサティーを紹介し、台本コクトー、音楽サティー、舞台装置と衣装はピカソ、プログラム解説はアポリネールという究極の布陣で、1917年、《パラード》の歴史的な上演が実現するのです。

◆狂乱の時代

第1次大戦後しばらくは、19世紀末と重なるような狂騒の時代でした。『独立芸術書房』にあたる書店も、サロンの役割を果たしました。シルビア・ビーチがオデオン界隈に開いた『シェイクスピア書店』には新進の詩人が集って自作を朗読し、アドリエンヌ・モニエの『オ・ザミ・デ・リーヴル』は、1919年にサティー《ソクラテス》を再演しています。観客はジッド、クローデル、ピカソ、ブラック、プーランク、ストラヴィンスキーといった豪華な顔ぶれでした。

いっぽう、「20世紀の黒猫」の異名をとるのは、1922年にボワシー・ダングレ街に開店したナイトクラブ『屋根の上の牡牛』です。店名は、コクトーのシナリオ・演出、ミヨーの音楽、デュフィの舞台装置で上演された同名の道化芝居にちなんでいます。

『屋根の上の牡牛』には、プーランク、ミヨーなど六人組や、キュビスト、ダダイストのグループ、ジョイス、ヘミングウェイなど“ロストジェネレーション”の作家、ディアギレフ、ストラヴィンスキーなどロシア・バレエ団関係者まで、尖鋭的な知識人が勢ぞろいし、ジャズの演奏が狂乱の雰囲気を盛り上げ、2年間コクトーの活動拠点となりました。

しかし、24年にブルトンがシュールレアリスム宣言をすると、これに共鳴したヴァランティーヌ・ユゴーはコクトーのもとを離れてしまいます。ブルトンが音楽を好まなかったこともあり、文芸運動と音楽は次第に遊離していきました。

1936年、オリヴィエ・メシアン(1908~92)は、「お手軽主義、貧血ぎみの新古典主義、そして極端な理知主義」に汚染されたフランス音楽を再生させるため、ジョリベらと「若きフランス」グループを結成しています。1938~39年、4人の支援者のサロンでコンサートが開かれ、メシアンも自作の声楽曲《数の死》のピアノ・パートを演奏しましたが、第二次世界大戦が勃発したためグループは散り散りになってしまいました。

世紀末からベル・エポックを華やかに彩っていたサロンの女主人たちも1950年までにはほぼ亡くなり、文学、芸術、ファッション、音楽、社交の中心は『ドゥ・マゴ』や『フロール』など、モンパルナスやサン・ジェルマン・デ・プレ界隈のカフェに移っていくのでした。

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