ピアニストは指がすべて。優れた音楽性があっても優れた指がなければ演奏できない。そんなことを言われる。私も、自著に「指」を盛り込んだタイトルをつけることが多い。でも、本書のタイトルは「指がすべてではない」という意味に使われている。
今年生誕二百年を迎えたロマン派の大作曲家シューマンは、指を痛めてピアニストを断念した。理由はいろいろ取り沙汰されているから、本書も指の故障をめぐる謎ときかと思ったら違った。真正面から音楽の神秘に迫った音楽思想哲学ミステリーなのである。
語り手の里橋は、都立高校三年のとき、国際コンクールジュニア部門の優勝歴をもつ美貌の新入生・永嶺修人(母は田中希代子を彷彿とさせる往年の名ピアニスト)と出会う。ダメモトで音大をめざす里橋は、シューマン狂の永嶺から多くのことを教えられた。
永嶺のシューマン論は独特だ。シューマンがピアノを弾くとき、それは彼の中で鳴っている音楽のほんの一部にすぎなかった、と永嶺は主張する。彼は「宇宙全体の音を聴いて、それを演奏している」から、「指が駄目になったとき、そんなに悲しまなかった」
音楽は音になる前から存在している。これこそ、優れたジャズの聞き手である著者が体得した真理なのだろう。永嶺自身、九歳でシューマンの難曲『トッカータ』を完璧に弾いてのけるほどの名手だが、指や楽譜のしばりから解放された自在の境地を求めていた。
里橋は永峰の演奏を三回しか聴いていない。その二回め、一世一代の名演の直後、恐ろしい殺人事件が起きる。そして最後の演奏のあと、永嶺の身に恐ろしい悲劇が襲いかかる。
前半は楽曲解説が多いが、決して衒学的な作品ではない。魅力的な登場人物とシチュエーションのもと、奥泉ファンおなじみの巧妙な語り口であっと驚くどんでん返しがあいつぐ。読み終えたときには、ミステリーの謎とともに、音楽の神秘も解き明かされていることだろう。