ルース・スレンチェンスカ著、大野陽子編・構成
(平凡社・1200円+税)
音楽家支える使命感
2018年、93歳でサントリー大ホールでリサイタルを開いたルース・スレンチェンスカは、ポーランド系ユダヤ人ピアニスト。手がとても小さく、名人芸タイプではないが、一つ一つのタッチに力を込め、心を込めて歌い紡ぐ演奏に感動した聴衆は、総立ちの拍手でたたえた。
本書は、ルースの長い音楽人生を聞き書きでつづったものである。4歳でデビュー、6歳でベルリン、7歳でパリ、8歳でニューヨーク・デビューを果たしたルースは、モーツァルトの再来と評される。9歳で師事したラフマニノフをはじめ、ホフマン、シュナーベル、コルトー、ホロビッツなど往年の名ピアニストたちのエピソードにもわくわくさせられる。
しかし、本書の価値はそこにあるのではない。神童としてスタートしたルースがいかに父親の影響から逃れ、悪しき商業主義からも逃れ、長いキャリアを積むに至ったかが飾らない言葉で飾られる。
15歳で活動を休止したルースは大学に入り、結婚した。ピアノも再開したが、夫が父親と同様に活動を強要するようになったので離婚。1953年、14年ぶりのヨーロッパ・ツアーで演奏したとき、初めて音楽家としての使命を実感する。
「自分の中に伝えるべきものがあって、それがたしかに聴衆に届いたこと、この人々が音楽を必要としていて、自分はそれをちゃんと手渡すことができた」「ピアニストとして人の役に立つことができる」という手応えが、以降の彼女を支えることになる。
63年には、ツアーの過酷さに体調を崩し、活動を再休止して教育に携わる。再婚したが、夫の死去を機に台北の大学の客員教授に。同地で、日本に帰化した歯科医、三船文彰に出会い、彼の招きでこれまでに10回来日、演奏と録音を行っている。
サントリーホールでのリサイタル後に赴いた東北で、高校生から長生きの秘訣を聞かれたルースは、聴く人に音をプレゼントすることだ、と答えた。「1音ずつ、音を育てて、鍛えて、その音を人に捧げます」
音楽を学ぶ人、愛する人すべてに読んでほしい書である。