二〇一九年二月二二日に放映された読売テレビ開局六〇年記念スペシャルドラマ「約束のステージ〜時を駆けるふたりの歌」はなつかしい番組だった。
小沢翼は歌手志望の二〇歳。青森の港町で家業の食堂を手伝っているが、電車の追突事故で一九七五年にタイムスリップしてしまう。上野行きの汽車で大空つばさというおない年の歌手志望に出会った翼は、二人でユニットを組み、「ダブル翼」(モデルはピンクレデイか?)として全日本歌謡選手権に応募する。
全日本歌謡選手権!五木ひろしや八代亜紀を生んだ伝説の歌番組だ。視聴者参加型のオーディション番組というと『スター誕生!』(一九七一年一〇月-八三年九月)を思い浮かべるが、全日本歌謡選手権はそのほぼ二年前、一九七〇年一月にスタートしていた。
予選を勝ち抜いた五〜六名の歌手が五名の審査員の前で歌う。審査員は各二〇点の持ち点で投票し、合計七〇点以上を得ると次回に出場できる。一〇週勝ち抜くとグランドチャンピオンになり、レコードデビューの機会が与えられる。
予選を通過すればプロアマ問わず参加できたため、ヒット曲に恵まれない実力派歌手たちの再生番組として有名だった。二〇一九年に放映されたテレビドラマ『後妻業の女』で木村佳乃扮する結婚詐欺師とやりあう中条きよしも、この番組で再出発した一人だ。渥美健の芸名で出場してグランドチャンピオンになり、審査員の平尾昌晃のすすめで現在の芸名に変え、山口洋子作詞、平尾昌晃作曲の『うそ』で大ヒットをとばした。
失神バンド『オックス』のボーカル野口ヒデトが出場したのも話題になった。『オックス』はグループサウンズ全盛期の一九六八年にデビュー。ローリング・ストーンズの『テル・ミー』を演奏中、半狂乱になって失神するパフォーマンスで人気を呼んだが七一年に解散。七五年六月、演歌歌手転向をめざして全日本歌謡選手権に出場した野口は、マイクをもつ手がふるえるほどの緊張の中で勝ち進み、一〇週目に五木ひろしの『よこはま・たそがれ』を歌ってグランドチャンピオンになり、真木ひでとと改名して再デビューする。
七〇年に全日本歌謡選手権でグランドチャンピオンになった五木ひろしは、おそらく全出場者の希望の星だったことだろう。松山まさる、一条英一…と名前を変えても芽が出ず、三谷謙の名前で応募したときの一〇回の歌声はYouTubeで聴くことができる。第一回は『噂の女』。「おんな〜〜ご〜ころの〜〜」で声をはりあげ、「〜〜かなしさなんて」ではわざとタイミングをずらし、「わかりゃしな〜い〜わ〜」でこぶしをまわし、「嘘と泪のしみついた」で語尾をふるわせ、心にくいまでのうまさだ。自分の持ち曲も使えるため、第三回では一条英一時代の『俺を泣かせる夜の雨』を歌っている。以降、順調に合格を重ね、『雨のヨコハマ』で一〇週勝ち抜いたときは紙吹雪が舞った。
再デビュー曲『よこはま・たそがれ』は山口洋子の作詞だったが、ジャーナリストの花田紀凱が『週刊文春』で、バルトークの歌曲の歌詞(ハンガリーの詩人アディ・エンドレ)そっくりだとすっぱ抜いて物議をかもしたこともある。
八代亜紀は中学卒業後、地元でバスガイドをしていたが歌手をめざして上京。一九七一年に『愛は死んでも』でデビューしたものの、レコードを抱えてキャンペーンする日々に疑問をいだき、「勝ち抜けなかったら歌手をやめる」覚悟で応募。再デビュー曲『なみだ恋』が大ヒットした。
八代はグランドチャンピオンになってすぐ売れたが、一五歳のときに本名で出場した天童よしみはそうはいかなかった。審査員の竹中労に認められて芸名を贈られ、竹中作詞の『風が吹く』で再デビューしたものの、一〇年以上も売れなかった。山本譲二も苦労した一人だ。伊達春樹の芸名でデビューし、二年間北島三郎の付け人をつとめたあと選手権に応募してグランドチャンピオンになったものの、再デビューもうまくいかず、『みちのくひとり旅』がヒットしたのは一九八〇年だった。
テレビ番組「約束のステージ〜時を駆けるふたりの歌」では、その山本が選手権について回想し、五木、八代、天童が、『スター誕生!』出身の城みちるとともに審査員役で出演している。アイドル顔負けの容姿と優れた歌唱力で勝ちすすんだ『ダブル翼』に暗雲がたちこめるのは五週。大空つばさの歌唱力にやや問題があり、天童よしみ扮する審査員が「高音がとっても苦しそう」と指摘する。全日本歌謡選手権の主な審査員は淡谷のり子、船村徹、鈴木淳、竹中労、平尾昌晃、山口洋子。講評は総じて辛辣で、それだけ聞いていると全員落選するような気がした。
中でも辛口で知られた淡谷のり子は、一九六五年の紅白歌合戦で「今の若手は歌手ではなく歌屋にすぎない」と発言して物議をかもした。選手権でも、五木ひろしに高得点を出さず、船村徹が絶賛した八代亜紀の歌をけなし、「南高節(こうせつ)とかぐや姫」(四回で棄権)がわざと音程をはずしたことを厳しく責める咎めた。
経歴を見ると、青森から上京して東洋音楽学校(のちの東京音楽大学)のピアノ科に入学し、フランス帰りの荻野綾子に声楽の素質を見いだされて声楽科に編入、首席で卒業して読売新人演奏会に出演したとある。クラシックの発声を学んだ歌手として、ロクに発声法も習得しないままマイクに頼る「歌屋」を非難するのはわかるが、淡谷自身の歌唱はヴィブラ〜ト(声をふるわせる唱法)がかかりすぎて歌詞がききとれなかった。
発足時の審査員、竹中労も辛口で知られた。戦後まもなく日本共産党に入党し、組合活動で何度も逮捕されたが、その後芸能活動にめざめ、『女性自身』のライターをつとめる。六八年には『タレント帝国ー芸能プロの内幕』で芸能界を支配する渡辺プロダクションを告発している。
ところで、全日本歌謡選手権は渡辺プロ色の強い新人スカウト番組をリニューアルした『ドリフターズ大作戦』と三ヶ月ほど重なっていた。局主導の発掘番組をぶつけた裏には、日本テレビの渡辺プロ離れがあり、竹中が審査員に加わったこととも関係しているかもしれない。もっとも彼は、何かのトラブルで開始後わずか一〇ヶ月で辞任している。竹中が天童よしみのデビュー曲『風が吹く』を作詞したのは、その二ヶ月後だった。
東京芸大で博士号を取得し、ドビュッシーをはじめとするフランス音楽の専門家……というイメージゆえだろうか、インタビューなどで「歌謡曲や演歌が好き」と言うと驚かれるが、子供のころから語尾を長くふるわせる「浪花節」に惹かれ、ラジオ時代にもよく聴いていた。クラシック好きの父の影響で家にはケンプやバックハウスのベートーヴェン、ハスキルやリリー・クラゥスのモーツァルト、コルトーのショパン、ギーゼキングのドビュッシーが流れていたが、自分から進んで聴くのは歌謡番組だった。
もともと歌うのが好きで、両親がピアノを習わせたのも、子供のころ童謡集を片端からおぼえて歌っていたので耳が良いと思ったからだという。中学では合唱部に所属していたが、ピアノが弾けるというので伴奏にまわされてしまった。芸大付属高校の入試はうまく弾けなかったので、落ちたら歌手の修行をしようと思っていたところへ何かの間違いで合格してしまった。副科声楽も得意で先生からは声楽家もめざせると言われたが、大学一年のときに声の出なくなる風邪にかかって左の声帯がマヒし、断念せざるをなかった。
全日本歌謡選手権が始まったのは大学一年の冬。翌年には『スター誕生!』も始まり、毎回熱心に観ていた。デビュー第一号の森昌子、二五社のプラカードが上がった桜田淳子、当時から大人びた雰囲気を漂わせていた山口百恵、澄んだ声が印象的だった岩崎宏美。芸大の修士課程を終えてフランスに留学したのが七五年九月、帰国が八〇年一月だから、ピンクレディの誕生も全日本歌謡選手権の終了も目撃していない。帰国後、八三年九月までつづいた『スター誕生!』では、小泉今日子と中森明菜が印象に残っている。キョンキョンは、歌はあまりうまくなかったが、ピンクのドレスに白いブーツでとにかく可愛かった。明菜は、風貌のわりに選曲が大人びていて審査員の松田トシからダメ出しされ、三回目で合格。黒の肩出しドレスで成熟した雰囲気をアピールしたのが成功につながった。
テレビのスカウト番組を見ながら、無意識のうちに自分たちの世界のコンクールと比較してみることもある。たとえば『スター誕生!』と『全日本歌謡選手権』は同じ日本テレビ系列ながらスタンスは真逆だった。スタ誕はアイドル志向で、プロの審査員の投票に会場の一般審査員の得点が合計される。合格者は決戦大会で歌い、芸能事務所、レコード会社が入札する方式。この場合、歌唱力はあまり問題にならないことが多い。歌謡選手権では四週目で落ちたのにスタ誕では大成功した石野真子は象徴的な例だ。
一九七七年、つまり全日本歌謡選手権が終了したあとにスタ誕に応募した石野は、会場の投票だけで合格点を獲得し、決戦大会でも一六社からスカウトされている。逆に、スタ誕では片平なぎさや小林美樹と決戦大会にすすみながらスカウトされなかった中真理子は、全日本歌謡選手権ではグランドチャンピオンになっている。結局売れなかったが。
クラシックのコンクールは、当然のことながら全日本歌謡選手権の要素が勝っている。審査員は専門家のみで、ステージングや演奏に魅力があっても技術的にミスがあると合格しない。音楽面でも審査員の好みで結果が大きく左右される。
最終的に一般聴衆の前に出す演奏家を専門家の耳だけで選ぶ矛盾は、いつも感じることだ。クラシックのコンクールでも聴衆賞を設けることはあるが、あくまでも副次的なもので、審査員の判定をくつがえすまではいかない。そのよい例が二〇一八年秋に開催された第一〇回浜松国際ピアノコンクールだった。
日本には現在、仙台、高松、浜松と三つの都市でピアノの国際コンクールがあるが、三年に一度開催される浜松国際はもっとも権威があるとざれている。創設は一九九一「年で初代審査員長は我が師安川加壽子。第三回、中村紘子を審査員長に迎えたころから大きくはばたき、のちにショパン・コンクールで優勝するラファウ・ブレハッチやチョ・ソンジン、チャイコフスキー・コンクール優勝の上原彩子、ヴァン・クライバーン・コンクール優勝のアレクサンダー・コブリンを輩出するなど、世界の檜舞台へのステップとして名をあげた。
このコンクールに着目した作家の恩田陸は、第六回から九回まで九年間にわたって取材をつづけ、二〇一七年度の直木賞と本屋大賞をダブル受賞した『密蜂と遠雷』を書いた。その翌年に開かれた第一〇回コンクールは、直木賞受賞作の舞台になったこともあり、第一次予選の段階から多くの聴衆が行列をつくる異例の現象を生んだ。
コンクールが大賑わいになったのは『蜜蜂と遠雷』効果ばかりではない。すでに天才少年ピアニストとして大衆的な人気をかちえていた牛田智大が〕受験者として出場したことも話題を呼んだ。三回の予選を勝ちぬいて首尾よく本選まですすんだ牛田は、ラフマニノブの『ピアノ協奏曲第二番』を完壁に弾き、聴衆賞を獲得したが、順位そのものは第二位だった。もし『スター誕生!』なら、間違いなく彼がチャンピオンだったろう。
『蜜蜂と遠雷』で描かれている芳ヶ江国際ピアノコンクールにも、栄伝亜夜という元天才少女ピアニストが出場し、やはり第二位になっている。内外のジュニァコンクールを制し、CDデビューも飾っていた亜夜は、十三歳のとき、よりどころとしていた母親を失って目標がなくなり、ステージから逃亡して「消えた天才少女」となった。芳ヶ江国際コンクールは、亜夜にとっての「再生コンクール」だったかもしれない。
とはいえ、第一〇回浜松国際に出場した牛田智大は、亜夜のように活動を休止していたのでも、全日本歌謡選手権の五木ひろしのように「売れていなかった」のでも、『スター誕生!』の小泉今日子のように音程をはずしたわけでもない。
彼は着実に実力を磨き、大人のピアニストへの道を歩んでいたのだが、その名声はどちらかというと専門筋よりは一般的なファンの問で広まっていた。クラシック関係者は、なぜか大衆的な人気を嫌う傾向がある。お茶の間のアイドルは深みに欠ける……というイメージがあるのだ。浜松国際コンクールはそんな牛田に「大人の本格的なピアニスト」としてのお墨付きを与える、「再生コンクール」の役目を果たしたといってよい。
優勝はトルコのチャクムルで、日本および海外での公演機会とともに、スウェーデンのBISでCD制作の権利も与えられた。BISは審査員長の小川典子が所属するレーベルなので、おそらく彼女の発案によるものだろう。
浜松国際は、故中村紘子が審査員長の時代には、重要な国際コンクールの前段階というスタンスだったが、二〇一八年から審査員長に就任した小川は、もう一段階レベルアップさせて、「浜松から直接、世界のひのき舞台に送り出す」という目標をかかげた。
一般的にクラシックのコンクールは、出場者に金銭的にも時間的にも多大な負担を強いる割には、主催者側に「売り出そうとする」意識が薄いと感じることがある。全日本歌謡選手権でも『スター誕生ー』でも、最終目標はレコード・デビューや大手事務所との契約だが、日本の演奏家の登竜門である日本音楽コンクールで、優勝者がCDを出したり大手事務所と契約を結ぶという話はない。多くの場合、コンクールは「勉強のため、修行のため」に受けるもので、出場者は審査員の講評をきき、反省して「さらに研鎖を積む」。
もちろん、ショパンやチャイコフスキーなど大きな国際コンクールでは、副次的にマネージャーがついたりCDデビューが決まったりすることはあるが、それが要項に盛り込まれているわけではない。とくにショパン・コンクールの場合、「ショパンの精神をもっともよく伝える演奏家を発掘する」という芸術的な観点が前面に掲げられている。どんなに聴衆の人気をかちえても、審査員の「芸術的観点」に見合わなければ落とされてしまう。
しかるに小川典子のビジョンは明快で、コンクールを、音楽事務所やオーケストラ事務局、放送局、レコード会社、ジャーナリスト、評論家、ホール、音楽祭主催者などを知らなくても「平等に舞台に立ち、注目してもらうことができる最短の場」と位置づける。
あくまでも「芸術的観点」を尊重しつつ、「入賞者を音楽マーケットに送り込む手段としてのコンクール」という姿勢を前面に打ち出した浜松国際は、『全日本歌謡選手権』と『スター誕生!』のよいところをとったコンクールになるかもしれない。
(あおやぎいづみこ・ピアニスト・文筆家)