サンソン・フランソワ(1924-1970)
Samson François
サンソン・フランソワのデビュー盤は、1947年9月に78回転のレコードのために録音したラヴェル『スカルボ』である。このレコードが同年3月に録音したリパッティのショパン『ソナタ第3番』と49年度のディスク大賞を争って破れたというのは象徴的だ。リパッティは50年には亡くなるのだが、楽譜に忠実で端正なスタイルで、当時台頭しつつあった「新即物主義」の旗手になるはずだった。対して楽譜通りの音を弾かない上にテンポを大きくゆらすフランソワは、遅れてきた19世紀的なピアニストだった。
もっとも、フランソワもパリ音楽院時代はがっちりしたべートーヴエンを弾いた、と同級生で親友の我が師ピエール・バルビゼは言っていた。私は実際に日本で、信じられないほど厳格な《熱情ソナタ》を聴いたことがある。
リパッティは、先生の教えに忠実で、自分を解き放てないことに苦しんでいた。もう少し長生きしていたら、また別のタイプの弾き手になっていたかもしれない。対してフランソワは、「楽譜に忠実派」のマルグリット・ロンに習っていたが、先生の言うことはまるできかなかった。ロン夫人は曲げた指でカタカタと弾いたが、フランソワは長くのばした指で鍵盤をはらうように弾いた。そんな弾き方ではタッチが不揃いになると非難されても、ジャズを愛する彼は、そもそも音符を均等に弾きたいとは思っていなかったようだ。
フランソワは第一回ロン=ティボー・コンクールの優勝者だが、この時は現行のような国際コンクールではなく、ロン夫人とヴァイオリニストのジャック・ティボーがパリ占領下の1943年に催した国内コンクールでしかなかった。審査員たちは優等生タイプの女性コンテスタントと奔放なフランソワの間で迷ったが、以前にフランソワと共演してその才能に魅せられていた指揮者のビゴが、彼が優勝しないなら審査員を降りると言い張り、根負けしたロン夫人が彼を1位にしたという話が伝えられている。
フランソワの演奏の魅力は、即興性の一語につきるだろう。ちょっと酔っぱらったようなリズム、風にたなびくようなフレージング。テキストの間違いも気にせず、その時に舞い降りてきた霊感に忠実に演奏する。いきおい、すばらしい時もあれば耳を覆いたくなる時もある。しかし、彼の演奏の「聴く人を魅了」する不思議な力は、一度囚われてしまうと忘れがたい。
フランソワがレコーディング中の心臓発作で亡くなるのは1970年10月22日。その年、ミシェル・ベロフはドビュッシー『24の前奏曲』、『12の練習曲』のレコードで現代風の知的な解釈を打ち出す。72年にはポリー二がショパン「24の練習曲』の完壁な演奏でピアノ界に革命を起こした。しかし、いつの世も、技術より芸術性、知性より感性を尊重する聴き手は、フランソワのドビュッシーやショパンを偏愛し続けていくことだろう。