世界を意識 教育にも熱
中村紘子さんの訃報に接し、がくぜんとしている。病のため何回か公演を休止したが、この4月には東京交響楽団とモーツァルト「ピアノ協奏曲第24番」を演奏。再び活発な活動が展開されるものとばかり思っていた。
中村さんの演奏人生は、欧米に追いつけ追い越せの戦後ピアノ教育史と重なる。私が初めて中村さんのピアノを聴いたのは小学生時代。音楽評論家・野村光一氏宅で演奏されたチャイコフスキー「ピアノ協奏曲第−番」を、ひたすら感嘆して聴いた。わずか15歳で日本音楽コンクールに優勝し、NHK交響楽団の世界一周公演のソリストに抜てきされたころだろうか。
日本で頂点を極めた中村さんだが、米国のジュリアード音楽院に留学すると、ロジーナ・レヴィーン教授にテクニックを一から見直すよう勧められる。当時の日本は指先を使った奏法が主流で、多少硬くても速く正確に弾けばよかったが、それではニュアンスや滑らかさは得られないのである。
1965年、第7回ショパン国際ピアノコンクールで第4位入賞。以降、国際舞台で活躍するとともに、多くの国際コンクールの審査員を務め、貴重な体験をもとに「チャイコフスキー・コンクール」などの著作を執筆。優雅な文体と鋭い切り口で一流の文筆家でもあった。
自身の経験を踏まえ、若いうちに世界で通用する奏法などを身につけられるよう、ピアノ教育にも情熱を注いだ。96年には海外の著名講師を招いて浜松国際ピアノアカデミーを創設。2015年のショパン国際ピアノコンクールの覇者、チョ・ソンジンもここで学んでいる。
浜松国際ピアノコンクールでは第3回から第7回まで審査委員長を務め、ラファウ・ブレハッチはじめ多くの俊英を国際舞台に送りだした。
若い才能の発掘にたけていた中村さんだが、ピアニストとしては息の長い活動を目指して、スポーツ専門のトレーナーに体のメンテナンスを依頼し、演奏生活50周年のときは全国で80以上もの公演をこなした。
骨太のがっちりしたスタイルだが、最近は繊細なタッチとペダリングで味わいを深めていた。円熟の境地に達した中村さんの演奏をもう聴くことができないと思うと残念でならない。
7月30日 新潟日報、河北新報、
8月1日 信濃毎日新聞、上毛新聞
8月2日 徳島新聞
8月3日 山陽新聞、熊本日日新聞、佐賀新聞、北日本新聞、
8月4日 茨城新聞、神戸新聞、東奥日報、京都新聞(これのみ夕刊)
8月9日 神奈川新聞